第5話:挑戦
翌朝。
アリサは鳥の声ではなく金属が擦れる音で目を覚ました。
窓際でセリアが剣を磨いている。朝日に照らされた横顔は昨夜の甘い表情とは別人だった。眉間に深い皺を刻み、唇を真一文字に結んでいる。
ルナは荷物の点検をしている。ポーションの瓶を光にかざし中身を確認する目は真剣そのものだ。
ミオだけがまだベッドで丸くなっているが、その寝顔にもどこか緊張感が漂っている。
空気が違う。
昨日のような浮ついた熱はない。冷たく張り詰めた戦場の空気が部屋を満たしている。
アリサの背筋が伸びた。
「おはようございます。セリアさん」
「……ああ。起きたか」
セリアは剣を鞘に納めた。カチンと硬質な音が響く。
「今日は二階層へ潜る。一階層とは空気が違うぞ。魔物の質も数も段違いだ」
「はい!」
セリアが地図を広げた。羊皮紙にインクで書き込まれた迷宮の図面。
「特に注意すべきは罠だ。毒矢。魔法陣。そして落とし穴。踏めば下の階層まで真っ逆さまだ。運が悪ければ戻ってこれない」
戻ってこれない。
その言葉の重みにアリサは唾を飲み込んだ。喉が鳴る。
セリアの指が地図の上をなぞる。手袋をしていない指先にはいくつもの古い傷跡があった。ささくれだった皮膚。歴戦の証。
簡単な食事を腹に詰め込みギルドへ向かう。
味はしなかった。ただ燃料を補給する作業。
受付のミリアが心配そうな顔をした。
「二階層の素材集めね。……気をつけて。最近オークの動きが活発なの。群れで行動しているという報告もあるわ」
「ああ。分かってる。無理はしない」
セリアが短く答える。
依頼書を受け取る指先が僅かに震えているのをアリサは見逃さなかった。恐怖ではない。武者震いだ。
広場の先にある巨大な石の門。
『挑戦者よ、汝の運命をその手に掴め』
刻まれた古代文字が朝日に黒く浮き上がっている。門の奥からは冷たい腐敗臭を含んだ風が吹き出している。
「行くぞ」
セリアが先頭に立ち闇の中へ足を踏み入れた。
一階層は数日前に通った道だ。
石畳の通路。壁には一定間隔で松明が燃えている。パチパチという爆ぜる音。煤の匂い。
アリサは新しい斧を握りしめた。柄の感触が手に馴染む。黒い木の質感。鉄の冷たさ。セリアに選んでもらった武器。これがあれば何でも斬れる気がした。
前を歩くセリアの背中を見る。
革鎧が腰のくびれを締め上げている。歩くたびに太腿の筋肉が躍動しお尻のラインが変わる。革が擦れる微かな音。
戦闘モードの彼女は鋭利な刃物のようだ。触れれば切れる。でも触れたい。
アリサの視線が背中に吸い付く。
奥にある螺旋階段を降りる。
一段降りるごとに空気が重くなる。気圧が変わる。湿気が肌にまとわりつく。松明の炎が頼りなく揺れ、影が踊る。
ミオが不安そうにアリサの服の裾を掴んだ。
「……なんか、いつもより暗いね」
「大丈夫だよ。私がいるから」
アリサはミオの手を握り返した。冷たい。震えている。
ルナが後ろからそっと二人の背中に手を添えた。温かい手。
「ここから二階層だ」
階段を降りきった先は広大な回廊だった。
天井が高い。闇が濃い。視界の端で何かが動く気配がする。
床には意味ありげな幾何学模様が刻まれた石板が点在している。
「あの模様は踏むな。即死級の罠もある」
セリアの指示に従い慎重に足を進める。
静寂。自分たちの呼吸音とブーツが石を叩く音だけが響く。
湿ったカビの臭い。獣の糞尿の臭い。古い血の臭い。
角を曲がった瞬間、強烈な悪臭が鼻を突いた。腐った脂の臭い。
「来るぞ!」
セリアが叫ぶと同時に暗闇から巨体が躍り出た。
オークだ。
ゴブリンより二回りは大きい。灰色の筋肉質な肉体。豚のような鼻が興奮でひくついている。濁った黄色い目がこちらを品定めしている。手には血と脂のこびりついた太い棍棒。
二体。口から泡を飛ばし咆哮を上げる。
「アリサ前へ! ミオとルナは援護!」
思考する前に体が動いた。
アリサはセリアと並んで前へ飛び出した。足裏で地面を噛む。
ドスン!
オークの棍棒が石畳を砕く。破片が頬を掠める。痛みが走る。
速い。風圧が顔を叩く。
だが見える。
アリサは低く構え懐に潜り込んだ。
獣臭い。息がかかる距離。オークの腹のたるんだ肉が見える。剛毛が生えている。
「はあっ!」
下から上へ斧を振り上げる。
ズプッという鈍い感触。肉に刃が食い込む抵抗感。骨に当たる硬い衝撃。
オークの太い腕が肘から先で切り飛ばされた。
鮮血が噴き出す。生温かい液体がアリサの顔にかかる。鉄の臭い。口に入った血が塩辛い。
オークが絶叫する。鼓膜が破れそうな大音声。
その隙を見逃さずアリサは追撃を入れた。
足を踏み込む。腰を回す。全身のバネを使った横薙ぎの一撃。
ゴッ、という音がして斧が首にめり込む。
硬い頸椎を断つ感触。肉が裂ける音。首が飛び、巨体がドサリと崩れ落ちる。
隣ではセリアがもう一体を仕留めていた。
流れるような剣技。オークの棍棒を受け流し、無防備になった脇腹を突く。剣を引き抜き、心臓を抉る。
正確無比。残酷なほどに効率的。
ミオの放った火球がトドメを刺し、オークは炭になって崩れ落ちた。肉の焦げる嫌な臭いが充満する。
静寂が戻る。
荒い呼吸音。血の滴る音。
「……やるじゃないか」
セリアが剣についた血を振るい落としながら言った。
返り血を浴びたセリアの顔はゾクゾクするほど美しかった。瞳孔が開いている。興奮しているのだ。汗で髪が額に張り付いている。
「セリアさんこそ……すごかったです」
「ふん。お互い様だ」
セリアが近づいてきた。距離がゼロになる。
彼女の親指が、アリサの頬についた血を強く拭った。
ザラついた手袋の感触。摩擦熱。皮膚が引っ張られる。
セリアは拭った指先を気にも留めず、荒い息を吐きながら至近距離でアリサを覗き込んだ。
瞳孔が開いている。理性のタガが外れかけた肉食獣の目だ。
「……いい顔をする」
低く掠れた声。セリアの熱い吐息がアリサの顔にかかる。
殺し合いの後の昂揚感が、性的な熱に変換されて二人の間を埋めていく。
アリサは腰が抜けそうになるのを必死で堪えた。
「怪我はないか」
セリアの手がアリサの体を探る。肩、二の腕、脇腹。怪我の確認という名目での接触。
力が強い。掴まれるたびに熱が伝わる。指が肉に食い込む。
胸の下をなぞる手。背中を叩く手。
ルナが駆け寄ってきてハンカチでアリサの顔を拭いた。優しい手つき。
ミオが後ろから抱きついてくる。震えているが体温が高い。
「だ、大丈夫です……」
「そうか。……いい体幹だ。軸がぶれていない」
セリアの手が腰に残り、名残惜しそうに離れた。
オークの牙を回収しさらに奥へと進む。
順調だった。アリサの怪力とセリアの剣技、ミオの魔法とルナの支援。完璧な連携。
道中、何度か戦闘があった。ホブゴブリンの群れ。天井から襲ってくる巨大な蝙蝠。
そのたびに四人は血と汗に塗れた。
ルナが傷ついたアリサの腕に手をかざす。温かい光。痛みが引いていく快感。
恐怖はいつしか全能感に変わっていた。私たちは強い。どこまででも行ける。
だが迷宮は甘くなかった。
広間に出た時だった。
複数の足音。低い唸り声。壁の向こうから響く金属音。
四方の通路からオークの群れが現れた。三体。いや五体。さらに奥から巨大なオークリーダーが姿を現す。
包囲網。
逃げ場がない。
「囲まれた! 数が多い! 一度下がるぞ!」
セリアが叫ぶ。声が裏返っている。
四人は背中合わせになりながら後退する。円陣を組む。
背中に仲間の体温を感じる。ルナの柔らかい背中。セリアの硬い鎧。ミオの震え。
汗の臭いと香油の匂い。
「私が道を開ける! ミオ、目くらましを!」
「わ、わかった! フラッシュ!」
ミオが杖を構え魔法の詠唱を始めたその時だった。
カチリ。
小さな音がした。
ミオの足元。石板が僅かに沈んだ音。世界がスローモーションになる。
「え?」
ミオが足元を見た瞬間、床が消失した。
巧妙に隠蔽された落とし穴。
支えを失ったミオの体が重力に従って落下する。
「ミオッ!」
アリサは何も考えずに手を伸ばした。
指先がミオのローブを掴む。布の感触。
だが勢いが強すぎた。ミオの全体重と落下のエネルギーがアリサごと穴の中へ引きずり込む。
「離すなっ!」
セリアがアリサの足を掴んだ。ルナがセリアの腰に抱きつく。
四人の体が団子状になり、そのまま暗黒の口へと飲み込まれていった。
浮遊感。
内臓が浮き上がる感覚。
風切り音。
暗闇。
悲鳴さえ上げる間もなく四人は深淵へと落ちていく。
誰かの手がアリサの胸を掴む。誰かの足が絡まる。
もつれ合う四肢。
「どこまで落ちるの……!?」
永遠にも思える落下時間の後。
ドォォォォン!
強烈な衝撃が全身を貫いた。
肺の中の空気が全て吐き出される。視界が明滅する。骨が軋む音。筋肉が断裂するような痛み。
アリサはミオを抱きかかえたまま地面を転がった。背中が焼けるように熱い。腕の感覚がない。
硬い石の床。冷たい。
「……っ……ぐぅ……」
喉から掠れた音が漏れる。息が吸えない。
激痛に耐えながら目を開ける。
そこは地獄の底だった。
天井は遥か高く霞んでいる。壁は黒曜石のように黒く濡れている。
空気の質が違う。
重く、冷たく、そして濃密な魔素の気配。肌がピリピリと痛む。針で刺されているようだ。
床には風化した骨や錆びた剣が散乱している。ここに来た者は誰も帰れなかったのだ。死の臭いが充満している。
「……みんな……?」
アリサは痛む体を引きずり起き上がった。
腕の中にいたミオは気絶しているが目立った外傷はない。アリサがクッションになったからだ。ミオの体が温かいことだけが救いだ。
少し離れた場所でセリアが倒れている。苦悶の表情。足首があり得ない方向に曲がっている。腫れ上がっているのが見てわかる。
ルナは壁に寄りかかり荒い息を吐いていた。額から血が流れている。白いローブが赤く染まっていく。
ミオが呻き声を上げて目を覚ました。
「……いたぁ……え……ここどこ……?」
「大丈夫だよミオちゃん。みんな生きてる」
アリサは震えるミオを抱きしめた。温かい。脈打っている。生きている。
ミオがしがみついてくる。涙で濡れた顔をアリサの胸に押し付ける。
ルナがよろめきながら杖を掲げた。顔色が紙のように白い。
「ヒール……」
淡い光が四人を包む。
アリサの擦り傷が塞がる。熱を持つ。セリアの足首の骨がゴリリと音を立てて元に戻る。
ルナがその場に崩れ落ちた。魔力の消耗が激しいのだ。
「ありがとうルナさん……」
四人が身を寄せ合う。互いの体温だけが頼りだった。
ミオの震え。ルナの荒い息。セリアの脂汗の臭い。
セリアが青ざめた顔で周囲を見回した。唇が震えている。
「……ありえない……」
「どうしたのセリアさん?」
「……ここ……二十階層だ……」
絶望的な響きだった。
「二十階層……?」
「黒い石壁。異常な魔素濃度。……間違いない。落とし穴で一気に十八階層分も落ちたんだ」
セリアが震える指で奥を指差した。
闇の向こうから重低音の咆哮が響いてくる。腹の底に響く獣の唸り声。空気がビリビリと振動する。
「あの鳴き声……キマイラだ。二十階層以降にしかいない上級魔物……」
アリサは血の気が引くのを感じた。
二十階層。
それはBランク以上の熟練冒険者でなければ足を踏み入れてはいけない領域。駆け出しのDランクパーティが生き残れる場所ではない。
死ぬ。
ここで死ぬ。
リアルな死の予感が背筋を駆け上がる。
ミオが泣き出した。
「ご、ごめんなさい……私が……私がドジだから……!」
「泣くなミオ」
セリアがミオの頭を掴んで胸に押し付けた。
「お前のせいじゃない。リーダーの私が気づけなかったのが悪い」
セリアの声は震えていたが力強かった。
ルナがミオの背中をさする。
「大丈夫よ。みんな生きてる。五体満足ならなんとかなるわ」
アリサも頷いた。恐怖で膝が震えている。歯の根が合わない。でもここで座り込んだら終わりだ。
「そうです。帰りましょう。みんなで」
セリアがアリサを見た。その目に光が戻る。
「……そうだな。まずは安全な場所を探す。隠れて体勢を立て直すんだ」
四人は身を寄せ合いながら歩き出した。
アリサはセリアの腰に手を回し支える。セリアの体温が高い。汗で服が湿っている。腰の肉感。
反対側ではルナがミオの手を引いている。
生きたい。
この人たちと生きて帰りたい。
その欲望だけがアリサの足を動かしていた。
絶望の底で四人の肌が触れ合う。
それは今までで一番濃厚で切実な接触だった。
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