第十一章 北からの影
甘味師ギルドのマスターに就任してから、半年が経った。
蓮の日常は、多忙を極めていた。
朝は新作レシピの開発、昼は見習いたちへの指導、夕方は各地の支部との連絡調整、夜は事務作業——。休む暇もなく、一日が過ぎていく。
しかし、蓮は充実感を覚えていた。
自分の技術が、多くの人の役に立っている。甘味師たちが育ち、菓子が王国中に広がっている。夢が、少しずつ現実になっている。
「レン、ちょっといい?」
ある日の昼下がり、セラフィーナが第二厨房にやってきた。
「どうしましたか?」
セラフィーナの表情は、いつもと違っていた。眉間に皺が寄り、唇がきつく結ばれている。
「ちょっと、話があるの。大事な話」
蓮は、作業の手を止めた。
「何ですか?」
セラフィーナは、窓の外を見ながら言った。
「ヴァルガン帝国のこと、知ってる?」
「名前は聞いたことがあります。北の軍事国家、でしたっけ」
「そう。この大陸の北部を支配する、強大な帝国よ。うちの王国とは、百年以上も緊張関係にある」
蓮は、黙って聞いていた。
「最近、その帝国で異変が起きているの。新しい宰相が現れて、急速に国の方針を変えている」
「宰相……」
「『黒い宰相』って呼ばれてる。顔も素性も不明。でも、彼が就任してから、帝国は急速に軍備を増強している。南——つまり、うちの王国の方向に、軍を集結させているらしいの」
蓮の胸に、嫌な予感が走った。
「黒い宰相」。その呼び名が、何かを想起させる。
「それで、この前、帝国から使節団が来たの。表向きは『友好の親善訪問』だけど、実際は偵察よ。うちの国の状況を探りに来た」
「……」
「その使節団の中に、あの宰相がいたらしいの。顔を隠していたから、私も直接は見てないけど」
セラフィーナは、蓮を振り返った。
「レン、あなたに聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
「あなた、『前世』の話をすることがあるでしょう? 独学で技術を学んだって言ってるけど、時々、まるで別の世界から来たような言い方をする。私、ずっと気になってたの」
蓮は、言葉に詰まった。
セラフィーナは、鋭い目で蓮を見つめた。
「正直に答えて。あなたは、この世界の人間じゃないの?」
沈黙が流れた。
蓮は、観念した。
「……はい。俺は、別の世界から来ました。『転生』したんです」
セラフィーナは、驚いた様子を見せなかった。むしろ、「やっぱり」という表情だった。
「前の世界では、俺はパティシエ見習いでした。菓子を作る職人です。そこで、今の技術を学びました」
「そう……。それで、菓子作りがあんなに上手いのね」
セラフィーナは、少し考え込んでから言った。
「実は、もう一つ聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
「あの『黒い宰相』も、転生者じゃないかって噂があるの。帝国の情報部が調べたところ、彼は五年前に突然現れて、異常な速さで出世した。まるで、この世界のことを最初から知っていたかのように」
蓮の心臓が、跳ねた。
五年前。蓮が転生したのは、六年前だ。つまり、蓮より一年後に——。
「その宰相の名前は……」
「ケンゴ・シュヴァルツ」
蓮の頭の中で、全てが繋がった。
ケンゴ。健吾。黒田健吾。
「黒い宰相」の正体は——。
「……俺の、知り合いです」
蓮は、かすれた声で言った。
「前の世界で、俺をいじめてた奴です」
その夜、蓮は眠れなかった。
黒田健吾。
あの男が、この世界にいる。しかも、帝国の宰相として。
なぜだ。なぜ、あの男がこの世界に。
蓮は、前世の記憶を辿った。
黒田は、蓮と同期入社だった。しかし、彼は蓮とは正反対の人間だった。器用で、要領が良く、上司に取り入るのが上手い。パティシエとしての才能も、蓮より明らかに上だった。
しかし、黒田は蓮を嫌っていた。
理由は、分からなかった。蓮は、黒田に何か悪いことをした覚えがない。それなのに、黒田は執拗に蓮をいじめた。仕事を妨害し、評価を下げ、「才能がない」と繰り返し罵倒した。
あの男が、この世界で宰相になっている。
しかも、王国に対して戦争を仕掛けようとしている。
偶然か。それとも、何か理由があるのか。
蓮は、答えを見つけられなかった。
翌週、帝国からの正式な使節団が、王都に到着した。
今回は、偵察ではなく、「和平交渉」という名目だった。両国の関係改善を目指す、という建前で。
蓮は、歓迎の宴に招かれた。
「甘味師ギルドのマスター」として、宴に菓子を提供する役割を任されたのだ。
宴会場は、王宮の大広間。数百人の貴族と、帝国の使節団が一堂に会している。
蓮は、厨房で菓子の最終準備をしていた。
「レン」
セラフィーナが、駆け込んできた。
「使節団の中に、あの宰相がいるわ。顔を隠してるけど、間違いない」
蓮の手が、止まった。
「……分かりました」
蓮は、深呼吸をした。
いずれ、会わなければならない。逃げても、状況は変わらない。
「俺、会場に行きます」
蓮は、厨房を出て、大広間に向かった。
会場には、すでに多くの人が集まっていた。煌びやかなドレスと礼服。シャンデリアの光。笑い声と、グラスの触れ合う音。
蓮は、会場を見回した。
そして——見つけた。
会場の一角に、黒いローブを纏った男が立っていた。
顔は、深いフードで隠されている。しかし、その体格、その立ち姿——。
間違いない。
黒田健吾だ。
蓮は、ゆっくりと近づいていった。
男は、蓮に気づいた。そして、フードを少し上げた。
その下から現れた顔は——。
あの日のままだった。切れ長の目。薄い唇。嘲笑を浮かべた、冷たい表情。
「……久しぶりだな、神崎」
黒田は、低い声で言った。
「お前、こっちでも底辺やってんのか? 見習いパティシエの分際で、宴会場をうろつくなよ」
蓮は、黙って黒田を見つめた。
「……何だ、その目は。何か文句あるのか?」
「……俺は、甘味師ギルドのマスターだ。底辺じゃない」
蓮の言葉に、黒田の表情が変わった。
「……何だと?」
「甘味師ギルド。この王国で、菓子を作る職人たちの組合だ。俺は、そのマスターを務めている」
黒田は、一瞬、言葉を失った。
そして、その顔が、怒りに歪んだ。
「……お前が、ギルドマスターだと?」
「ああ」
「俺より先に、成功しやがって……」
黒田の声が、震えていた。
「許さねえ。絶対に、許さねえぞ、神崎……」
黒田は、蓮を睨みつけた。
その目には、純粋な憎悪が宿っていた。
「俺は、お前の全てを奪う。この世界でも、お前を叩き潰してやる」
黒田は、踵を返して去っていった。
蓮は、その背中を見送りながら、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
戦いが、始まる。
この世界での、黒田との戦いが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます