第二章 目覚めた世界
最初に感じたのは、光だった。
まぶたの裏を透過する、柔らかな光。太陽の光だ。しかし、それは蓮が知っている東京の太陽とは違っていた。もっと澄んでいて、もっと優しい。まるで、世界が生まれたばかりの朝のような——。
「……っ」
蓮は目を開けた。
視界がぼやける。天井が見える。木造の天井だ。年月を経て飴色に変色した梁が、規則正しく並んでいる。見覚えのない天井。見覚えのない部屋。
ここは、どこだ。
蓮は身体を起こそうとした。しかし、全身に力が入らない。まるで、長い間眠っていた後のように、筋肉が言うことを聞かない。
「あ、起きた! 母さん、レンが起きたよ!」
高い声が響いた。子どもの声だ。
蓮は声のした方向を見た。ベッドの傍らに、一人の少女が立っていた。十歳くらいだろうか。亜麻色の髪を二つに結び、そばかすの浮いた顔で蓮を見下ろしている。
「よかった……三日も目を覚まさないから、心配したんだよ」
少女の目には、涙が滲んでいた。
蓮は混乱した。この少女は誰だ。なぜ自分の名前を知っている。そもそも、ここはどこなのだ。
「レン!」
バタバタと足音がして、中年の女性が部屋に飛び込んできた。素朴な麻の服を着た、日に焼けた肌の女性だ。蓮を見るなり、彼女は膝をついてベッドに縋りついた。
「ああ、レン、よかった……。目が覚めて、本当によかった……」
女性は蓮の手を握り、頬を寄せて泣いた。
蓮は、ますます混乱した。
この女性を、自分は知らない。しかし、彼女の態度は明らかに「母親」のそれだ。自分の息子が目を覚ましたことを喜ぶ、母親の態度。
待て。
蓮は自分の手を見た。
小さな手だった。指は細く、爪はピンク色で、大人の手ではない。子どもの手だ。
蓮は、自分の身体を見下ろした。
小さな身体。細い腕。薄い胸。大人の身体ではない。十歳くらいの、子どもの身体。
「……俺は」
声を出そうとして、蓮は驚いた。自分の声が、高い。変声期前の少年の声だ。
何が起きている。
蓮の頭の中で、混乱が渦を巻いた。自分は神崎蓮、二十五歳のパティシエ見習いだ。都内のパティスリーで働いていた。そして、帰り道で車に轢かれて——。
死んだのか。
死んで、どこか別の場所に来たのか。
この身体は、誰のものだ。
「レン、大丈夫? 顔色が悪いわ。まだ横になっていなさい」
女性——「母親」が、蓮の肩を押してベッドに横たえた。蓮は抵抗する力もなく、再び枕に頭を沈めた。
「ミラ、お水を持ってきて。それから、ヨルグさんを呼んできなさい。レンが目を覚ましたって」
「うん!」
少女——ミラと呼ばれた——は、勢いよく部屋を飛び出していった。
蓮は天井を見つめながら、必死に状況を整理しようとした。
自分は死んだ。それは、ほぼ確実だ。あの衝撃、あの痛み、あの暗闇。あれは、死の瞬間だった。
では、今の自分は何なのか。
死後の世界? いや、それにしてはあまりにも現実的だ。この身体の感覚、この空気の匂い、この光。全てが「生きている」ことを示している。
もしかして——。
蓮の脳裏に、かつて読んだ小説の記憶がよみがえった。異世界転生。現代日本で死んだ人間が、別の世界で新しい命として生まれ変わる。そういう物語を、子どもの頃に読んだことがある。
まさか。
そんな馬鹿な話があるわけがない。
しかし、今の状況を説明できる他の理論が、蓮には思いつかなかった。
「レン」
「母親」が、蓮の額に手を当てた。冷たくて、少し荒れた手。農作業で酷使された手だ。
「熱はないみたいね。でも、無理しちゃだめよ。森で倒れてたって、ミラが見つけてくれたの。何があったの?」
蓮は答えられなかった。何があったか、自分でも分からないのだから。
「……ごめん。覚えてない」
「そう……。まあ、いいわ。今は休むことだけ考えなさい」
「母親」は優しく微笑み、蓮の髪を撫でた。
その感触に、蓮は不思議な安堵を覚えた。「母親」の愛情。それは、蓮がずっと欲していて、しかし得られなかったものだった。本当の母親は、蓮が幼い頃に病気で亡くなった。父親は再婚し、蓮は居場所を失って、十八歳で家を出た。それ以来、「家族」というものとは無縁だった。
この世界の「母親」が、本当に自分を愛しているのかどうか、蓮には分からない。しかし、少なくとも今、この瞬間、彼女の手は温かかった。
数日が経った。
蓮は少しずつ、この世界のことを理解し始めていた。
ここは「アルケミア大陸」と呼ばれる世界の、辺境にある小さな村だ。人口は百人ほど。村人のほとんどは農民で、小麦や野菜を育てて暮らしている。
蓮が転生した身体の持ち主は、「レン・カルディア」という十歳の少年だった。農家の三男坊で、両親と二人の兄と暮らしている。数日前、森で倒れているところをミラに発見され、それ以来意識を失っていたらしい。
そして、この世界には「魔法」が存在する。
蓮は最初、それを信じられなかった。しかし、村の診療師——ヨルグという名の老人——が、蓮の治療に「治癒魔法」を使うのを見て、認めざるを得なかった。老人の手から淡い光が放たれ、蓮の身体の痛みが和らいでいく。それは、科学では説明できない現象だった。
「お前さん、魔力がほとんどないのう」
ヨルグは、蓮の身体を診察しながら言った。
「生まれつきか、それとも森で何かあったのか……。とにかく、魔法を使うのは難しいじゃろう」
蓮は、黙って頷いた。
魔法が使えない。この世界において、それは致命的な欠陥なのだという。魔法は、この世界の文明を支える根幹だ。農業にも、医療にも、戦闘にも、魔法が使われる。魔法を持たない人間は、社会の底辺に追いやられる。
「役立たず」
その言葉が、蓮の脳裏をよぎった。
また、底辺か。
前の世界でも、蓮は「才能がない」と言われ続けた。そして、この世界でも、「魔力がない」として蔑まれることになるのか。
しかし、蓮は絶望しなかった。
なぜなら、蓮には魔法以外の「武器」があるからだ。
前世の記憶。二十五年間生きてきた知識と経験。そして、三年間必死に学んだ製菓の技術。
それらは全て、蓮の頭の中に残っていた。
ある日の午後。
蓮は村の中を歩き回っていた。身体はまだ完全には回復していなかったが、じっとしていることに耐えられなかった。この世界のことを、もっと知りたかった。
村は、貧しかった。
家々は粗末な木造で、道は舗装されておらず、泥濘んでいた。村人たちの服は色褪せ、継ぎ接ぎだらけだった。子どもたちは裸足で走り回り、大人たちは疲れた顔で畑仕事をしていた。
しかし、蓮が最も衝撃を受けたのは、「食」だった。
昼食の時間、「母親」が出してくれたのは、硬いパンと野菜のスープだけだった。パンは黒く、酸っぱい匂いがした。スープには、ほとんど具が入っていなかった。
これが、この世界の「食事」なのか。
蓮は、前世の日本の食文化を思い出した。白いご飯、味噌汁、焼き魚、漬物。コンビニに行けば、いつでも好きなものが買えた。スーパーマーケットには、世界中の食材が並んでいた。
この世界には、それがない。
「なあ、母さん」
蓮は食事の後、「母親」に尋ねた。
「砂糖って、この村にある?」
「砂糖?」
「母親」は、不思議そうな顔をした。
「砂糖は……王都の貴族しか食べられないわ。うちみたいな農家には、手が届かないもの」
「じゃあ、甘いものって、食べたことない?」
「甘いもの……。蜂蜜なら、たまに手に入るけど。でも、それも高くて、めったに買えないわね」
蓮は、衝撃を受けた。
この世界の人々は、「甘味」を知らないのだ。
砂糖は貴族の贅沢品。庶民は、甘いものを食べる機会がほとんどない。ケーキも、プリンも、チョコレートも、この世界には存在しない。
なんてことだ。
蓮は、自分の中に使命感のようなものが湧き上がるのを感じた。
この世界に、「甘味」を届けたい。
この世界の人々に、「お菓子」の喜びを知ってほしい。
それは、蓮にしかできないことだ。前世で学んだ製菓の技術を、この世界で活かすことができる。魔法は使えなくても、「菓子」は作れる。
しかし、問題がある。
材料だ。
砂糖がない。バターがない。生クリームがない。チョコレートも、バニラも、アーモンドもない。前世で使っていた材料のほとんどが、この世界には存在しないか、極めて入手困難だ。
では、何が使えるのか。
蓮は、村の中を歩き回りながら、使えそうな材料を探した。
卵。農家なので、鶏を飼っている家がある。卵は手に入る。
牛乳。村には数頭の牛がいる。乳は、飲むか、チーズを作るかに使われているらしい。
蜂蜜。高価だが、たまに手に入る。砂糖の代用になるかもしれない。
小麦粉。村の主産物だ。精製度は低いが、使えないことはない。
これだけあれば——。
蓮の脳裏に、一つのレシピが浮かんだ。
プリン。
卵、牛乳、砂糖(蜂蜜で代用)。シンプルな材料で作れる、最も基本的なデザート。蒸し器がなくても、鍋と水があれば湯煎で作れる。
これなら、できるかもしれない。
蓮は、希望を胸に、家に走って帰った。
「レン、何をしているの?」
台所で作業をしていると、ミラが覗きに来た。
蓮は、ボウルの中身をかき混ぜながら答えた。
「お菓子を作ってるんだ」
「お菓子? お菓子って、何?」
ミラは、首を傾げた。「お菓子」という概念自体が、彼女には馴染みがないようだ。
「食べたら分かるよ。美味しいから、楽しみにしてて」
蓮は微笑み、作業を続けた。
材料は、「母親」に頼んで分けてもらった。卵三個、牛乳一カップ、蜂蜜大さじ三杯。それだけだ。前世で作っていたプリンに比べれば、材料は貧弱すぎる。しかし、やってみる価値はある。
蓮は、卵を割ってボウルに入れた。
久しぶりに触れる卵の感触。殻の硬さ、黄身の弾力、白身の粘り。それらが、蓮の指先に馴染む。
ああ、これだ。
蓮は、自分が「生きている」ことを実感した。
卵を泡立て、牛乳と蜂蜜を加えて混ぜる。こし器がないので、麻の布で漉す。カラメルソースは作れないので、省略する。
陶器の器に流し入れ、布で蓋をする。鍋に水を張り、器を入れ、弱火で蒸す。
ここからが勝負だ。
蓮は、鍋の前に座り込み、火加減を調整し続けた。強すぎれば気泡が入り、弱すぎれば固まらない。温度計がないので、手の感覚だけが頼りだ。
「……」
ミラが、蓮の隣に座った。何も言わず、蓮の作業を見つめている。
三十分後。
蓮は鍋から器を取り出し、冷水で冷やした。そして、そっと布を外す。
プリンは、綺麗に固まっていた。
表面は滑らかで、かすかに琥珀色に輝いている。蜂蜜の香りが、ふわりと立ち上る。
「……できた」
蓮は、小さく呟いた。
完璧ではない。前世で作っていたプリンに比べれば、見た目も、香りも、きっと味も劣るだろう。しかし、この世界で、この材料で、蓮は「プリン」を作ったのだ。
「ミラ、食べてみて」
蓮は、スプーンですくったプリンをミラに差し出した。
ミラは、おそるおそるスプーンを口に運んだ。
そして——。
ミラの目が、大きく見開かれた。
「……っ!」
彼女の目から、涙が溢れた。
「なに、これ……。なに、これ……!」
ミラは、泣きながらプリンを食べ続けた。スプーンを持つ手が震えている。
「甘い……。こんな味、初めて……。こんな、美味しいもの、初めて……!」
蓮は、ミラの反応を見つめていた。
ああ、そうだ。これだ。
この顔が見たかったのだ。
自分の作った菓子を食べて、喜んでくれる人の顔。それが、蓮が三年間、苦しみながらも夢見続けたものだった。
そして今、異世界で、ようやくそれを目にすることができた。
蓮の目にも、涙が滲んだ。
「……うん。美味しいよな」
蓮は、ミラの頭を撫でながら言った。
「これからも、もっと美味しいもの、作るから。楽しみにしてて」
ミラは、涙を拭いながら、何度も頷いた。
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