第三章「枯れた大地」

最初に感じたのは、乾いた風の匂いだった。


土埃と、枯れ草と、かすかな腐敗臭が混じった、荒涼とした匂い。蓮はゆっくりと目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、灰色の空だった。雲が低く垂れ込め、太陽の光を遮っている。空気は乾燥しており、肌がぴりぴりと痛むほどだった。


身体を起こす。地面は固く、ひび割れた土が広がっている。周囲を見回すと、枯れた木々がまばらに立っており、その向こうには崩れかけた小屋が数軒見えた。


「ここが……エルドガルド」


蓮は立ち上がり、自分の身体を確認した。服装は、転生前と同じ普段着のままだ。手足に異常はない。ただ、身体がやけに軽く感じる。まるで、十歳若返ったかのような感覚だった。


小屋のある方向へ歩き始める。足元の土は乾ききっており、一歩踏み出すたびに砂埃が舞い上がる。


近づくにつれて、その場所が村であることが分かった。十数軒の家屋が並び、中央には井戸らしきものがある。しかし、人の気配がほとんど感じられない。建物の多くは傷んでおり、屋根が崩れ落ちた家もあった。


「誰か……いませんか」


蓮は声を上げた。返事はない。


村の中を歩き回る。家々の窓は閉ざされ、中を覗いても暗くて何も見えない。井戸の傍まで来たとき、ようやく人の姿を見つけた。


老人だった。井戸の縁に腰掛け、虚ろな目で空を見上げている。痩せこけた身体は、服の中で泳いでいるように見えた。


「あの、すみません」


蓮が声をかけると、老人はゆっくりとこちらを向いた。その目には、驚きも警戒も浮かんでいない。ただ、諦観だけがあった。


「……旅人か」


しわがれた声だった。


「見ての通り、この村には何もない。宿も食事も提供できん。他を当たってくれ」


「いえ、そういうわけでは……。ここは、どこですか?」


老人は怪訝そうな顔をした。


「どこ、とは? お前さん、記憶でも失ったのか」


「……少し、事情がありまして」


蓮は曖昧に答えた。「異世界から転生してきました」とは、さすがに言えない。


「ここはグレンの村だ。カイン伯爵領の外れにある。もっとも、今となっては『村』と呼べるかどうかも怪しいがな」


老人は自嘲的に笑った。


「十年前までは、百人以上が暮らしていた。畑も豊かで、森には獣も多かった。それが今じゃ、二十人足らずだ。若い者はみな、都市部へ逃げていった」


「……何があったんですか」


「枯死だよ」


老人は枯れ木のような腕を持ち上げ、周囲を示した。


「この辺り一帯は、二十年ほど前から急速に枯れ始めた。作物が育たなくなり、井戸も涸れかけた。最初は天候のせいだと思っていたが……違った。土そのものが、死んでいるんだ」


蓮は周囲の大地を見渡した。確かに、生命の気配がほとんど感じられない。草一本生えていない灰色の地面が、どこまでも続いている。


「世界樹のせいだと、学者は言っておる」


老人は続けた。


「ユグドラシアが弱っているから、魔力が行き届かなくなった、とな。だが、我々にはどうすることもできん。世界樹は遥か遠くにあり、祈りを捧げることすらできんのだから」


蓮は黙って聞いていた。イリスが語った通りの状況だった。世界樹の衰退が、このような形で人々の生活を直撃している。


「お前さん、妙な格好をしているな。見たことのない服だ」


「これは……故郷の服です」


「故郷? どこから来たんだ」


「遠い……とても遠い場所から」


老人は訝しげな目で蓮を見つめたが、それ以上追及はしなかった。


「まあいい。見たところ、悪い人間ではなさそうだ。よければ、村長の家に案内しよう。今夜の寝床くらいは、何とかなるかもしれん」


「ありがとうございます」


老人に従って、村の中を歩く。途中、数人の村人とすれ違ったが、誰もが蓮を警戒の目で見ていた。よそ者が珍しいのか、それとも他に理由があるのか。


村長の家は、村の中では比較的しっかりした造りの建物だった。老人が扉を叩くと、中から「誰だ」という声がした。


「ハンス爺だ。客人を連れてきた」


扉が開き、中から別の老人が姿を現した。こちらは先ほどの老人よりも体格がよく、まだ生気が残っているように見えた。


「客人? この村に、物好きな……」


村長は蓮を見て、言葉を切った。


「……お前さん、その服は」


「遠い故郷のものです」


「ふむ……。まあ、立ち話もなんだ。中に入りなさい」


村長の家の中は、質素だが清潔に保たれていた。土間には竈があり、奥には畳のような敷物が敷かれた居間がある。


「リーネ。お客様だ。お茶を用意してくれ」


村長が奥に向かって声をかけると、「はーい」という若い女性の声が返ってきた。


しばらくして、奥から一人の少女が姿を現した。十六、七歳ほどだろうか。亜麻色の髪を後ろで束ね、素朴だが整った顔立ちをしている。エプロンを身につけた姿は、どこか蓮の記憶にある「昭和の少女」のようでもあった。


「いらっしゃいませ。私、リーネといいます。村長の孫です」


リーネは蓮に向かって、ぺこりと頭を下げた。その仕草に、蓮は少し肩の力が抜けた。この世界の人間が、全員が敵意を持っているわけではないらしい。


「水谷蓮です。よろしくお願いします」


「ミズタニ……? 変わった名前ですね」


「故郷では、普通の名前なんですよ」


リーネは不思議そうに首を傾げながら、お茶の用意を始めた。湯気の立つカップが、蓮の前に置かれる。


「さて、ミズタニ殿。単刀直入に聞くが、お前さんは何者だ?」


村長は蓮をまっすぐに見つめた。その目には、老いてなお衰えぬ鋭さがあった。


「見たことのない服、聞いたことのない言葉遣い。そして、何より——お前さんの身体からは、魔力の気配がほとんど感じられん。この世界の人間ならば、誰でも多少の魔力を持っている。それがないということは……」


村長は言葉を切り、じっと蓮を見つめた。


「——異界からの来訪者、ということか」


蓮は驚いた。この世界では、異世界からの転生者という概念が知られているのだろうか。


「……はい。私は、別の世界から来ました」


隠しても仕方がないと判断し、蓮は正直に答えた。


「やはりな」


村長は深くため息をついた。


「百年に一度か二度、異界から人が現れるという話は聞いたことがある。多くは勇者として讃えられ、国に召し上げられる。しかし、こんな辺鄙な村に現れるとは……」


「私は勇者ではありません。戦う力もありません。ただ——」


蓮は言い淀んだ。「花屋でした」と言っても、理解されるだろうか。


「ただ、植物を扱うことだけが得意な、普通の人間です」


「植物を?」


村長とリーネが、同時に首を傾げた。


「この村に、まだ生きている植物はありますか?」


「生きている植物……。ほとんどないな。井戸端に、かろうじて枯れかけた花が一輪残っているくらいだ」


「見せていただけますか」


村長は怪訝そうな顔をしながらも、蓮を井戸へと案内した。


井戸の傍に、小さな植木鉢が置かれていた。中には、名も知らぬ花が一輪——いや、花とは呼べないほど萎れきった植物が、かろうじて茎を保っているだけだった。


蓮はしゃがみ込み、その植物を観察した。


葉は茶色く変色し、茎は力なく垂れ下がっている。土は乾ききっており、水分がほとんど残っていない。普通なら、もう手遅れだと判断する状態だ。


だが——


蓮は目を細めた。


この植物の内部に、何かが流れているのが「見えた」。水ではない。もっと別の、淡い光のような何か。それが茎の中を細く流れ、しかし途中で滞っている。


これが、魔力というものなのだろうか。


「……やってみるか」


蓮は花切りバサミを持っていないことに気づいた。代わりに、腰に帯びていた——いつの間にか装備されていた——小さなナイフを手に取る。刃は鋭く、十分に使えそうだった。


植木鉢を井戸の水場に運び、桶に水を汲む。そして、茎の根元を水中に沈め、斜めに切った。


水切り。


切り花を長持ちさせる、最も基本的な技法だ。


切った瞬間、蓮の手に奇妙な感覚が走った。まるで、茎の内部を流れる「何か」に触れたような。


その感覚に従い、蓮は意識を集中させた。植物の内部に流れる淡い光——魔力の流れを、より強くイメージする。滞っていた流れを、押し出すように。


スキル【水揚げ】が、自動的に発動した。


蓮の手から、かすかな光が漏れた。それは茎を伝い、植物全体に広がっていく。


数秒後。


萎れていた葉が、ゆっくりと上を向いた。茶色く変色していた部分に、緑色が戻り始める。茎がしゃんと立ち上がり、蕾だったものが、ゆっくりと開き始めた。


淡い紫色の花弁が、乾いた空気の中で開花した。


「……なんと」


村長が、信じられないものを見るような目で、その花を見つめていた。


「枯れかけた花が……生き返った……?」


リーネも、目を見開いている。


「すごい……。こんなの、見たことない」


蓮は立ち上がり、自分の手を見つめた。


スキル【水揚げ】。


地味なスキルだと思っていた。だが、この世界では——少なくとも、この枯れた大地では——それは「奇跡」と呼ばれるものなのかもしれない。


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