第2話:ザンジュの残り香、黒海の小麦
1448年7月
7月のカッファは、白い陽射しに包まれていた。
だが、港から吹き上げる風は驚くほど乾き、石造りの商館の中庭は、過剰な熱を石の壁の奥へと逃がす風が吹き抜けている。
ナディラは、石のテーブルに並べた籠を見下ろし、満足そうにひとつ息をついた。
焼き上げたばかりの平たいパンと、黄金色に輝く小さな菓子。どちらも、遠い故郷――ザンジュの白砂の波打ち際で作っていたものを、記憶の糸を辿りながら手繰り寄せた料理だった。
「……できたわよ」
声をかけると、傍らのミレーナが顔を上げた。
かつてその瞳を曇らせていた深い虚脱は、もうない。呼吸は浅くなく、肩も強張っていなかった。
目に確かな光が宿り、その足取りも、夏の光を撥ね退けるほどに軽い。
「いい匂い……」
立ちのぼる湯気に鼻先を近づけ、ミレーナは深く、吸い込んだ。
馴染みのある小麦の香ばしさの奥に、嗅いだことのない甘く鋭い刺激――スパイスの香りが潜んでいる。
ひと口、ミレーナがそれを口に運ぶ。
次の瞬間、陶器のひび割れが修復されるように、彼女の表情がぱっとほどけた。
「おいしい!」
その声には、ためらいも、自分を律する警戒もなかった。ただ、生命が放つ率直な歓喜。
ナディラはそれだけで、胸の奥に灯火が宿るような温かさを感じた。
「ありがとう。でも……ごめんなさいね」
ナディラは、少しだけ悪戯っぽく肩をすくめた。
「本当は、こんな味じゃないの。私の故郷では『お米』の粉を使うのよ。もっと白くて、柔らかくて、少しだけもちっとしていて……。それから、木の実から搾ったココナッツの乳を入れるの」
ミレーナは首を傾げた。
「お米の粉? なあに、それは」
「お米な粉というのはね」
「お米という真珠のような粒を細かく挽いたものよ。この街の麦みたいなものね」
「ナディラの故郷には、そんな不思議なものがあるのね」
「ええ。あと、ココナッツというのは大きな木の実のこと。その中から、海の匂いがする甘いお乳がとれるのよ」
ミレーナの瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「木の実から乳がとれるの?すごぉい!」
彼女にとって、それはおとぎ話の領域だった。
黒海沿岸の貧しい村では、小麦と塩、そして時折の蜂蜜があれば、世界は完結していたのだから。
「でも……」
ミレーナは愛おしそうにもう一度、パンを齧った。
「すごく好き。これ」
ナディラは思わず、言葉を飲み込んだ。
「小麦の感じが、強すぎるでしょう?」
「うん。でも、それがいい」
ミレーナは強く頷いた。
「いつも食べてるパンに、ナディラの故郷の匂いが、ひとつに混ざっているみたい」
ナディラは、黙ったまま彼女を見つめた。
――ああ、この子はもう、「生きること」を味わう場所まで戻ってきたのだ。
それは、魂の回復を告げる、何より確かな徴だった。
「……一緒に、作ってみる?」
ナディラが誘うと、ミレーナの顔が夏の朝のように輝いた。
「いいの?」
「もちろん」
その日、二人は並んで厨房の影に立った。
粉を量り、水を足し、香辛料の種を指先で丹念に潰す。ナディラのしなやかな動きを、ミレーナの幼い手つきが懸命に追う。
出来上がった生地は、ザンジュのそれよりも重く、逞しい弾力があった。
焼き上げると、立ちのぼる香りは確かに南の海とインドの熱風を運んでくる。なのに、歯を入れた瞬間に返ってくるのは、カッファの荒野が育てた小麦のはっきりとしたコシだった。
「……不思議な味」
ミレーナが言い、すぐに鈴を転がすように笑った。
「でも、一生忘れない味」
ナディラも、同じ想いを抱いていた。
これはもう、スワヒリの料理でもカッファの料理でもない。
この館で、この7月に、この二人でなければ決して生まれなかった、唯一無二の記憶の味だ。
夕刻。
片付けを終えた中庭に、長く柔らかな影が伸びる。
ミレーナが、ふと思い出したように、小さな声を落とした。
「ねえ、ナディラ」
「なあに?」
「私が最初にここへ来たとき、遠くで見たの。この館のご主人様」
ナディラの手が、一瞬だけ止まる。
「ねえ、あの人って、どんな人なの?」
ミレーナの声に、かつての怯えはなかった。
ただ、自分を救い上げた巨大な存在に対する、純粋な好奇心だけがあった。
ナディラは、夕闇に溶けゆく石壁を見つめ、少し考えてから答えた。
「……難しい人よ」
「怖い人?」
「いいえ、怖くはないわ」
その否定は、夜風よりも速く、確かな響きを持っていた。
「優しいの?」
その問いには、わずかな沈黙が流れた。
「……そうね。とても分かりにくい人。でも、心の奥底には、深い水のような穏やかさがある人よ」
ナディラは、清潔な布を丁寧に畳みながら続けた。
「何より、人の痛みを放っておけないのよ。その痛みに、自分まで傷ついてしまうくらいに」
「そんな風には、見えなかったけど」
「ふふ、そういう人なのよ」
ナディラは、穏やかに微笑んだ。
「癒し手の方ではないけれど、この世のすべての人を治すことなんてできないと、誰よりも知っている人。
それでも……それでも諦めたくないと、一人で頑張っている。
だから、いつもあんなに怖い顔をしているの」
それは、彼女にしか解き明かせない、館の主に対する最大限の敬意だった。
ミレーナは、その言葉を噛みしめるように黙り込み、やがて小さく頷いた。
「……そっか」
それ以上の問いは、必要なかった。今の彼女には、その答えだけで十分だった。
中庭を、涼やかな夕風が吹き抜けていく。
乾いた薬草の苦い匂いと、焼き菓子の甘い残香が、溶け合って消えていく。
ナディラは思う。
この7月は、ひとつの区切りなのだ。
ミレーナは、もうこちら側の世界へ帰ってきた。
そして自分は、その奇跡の伴走を、静かに役目として終えた。
それだけで、この長く暑い月は、宝石のような価値を持って胸に刻まれた。
【ナディラ私記】
7月某日。
あの子は、食べることを喜んだ。
香りを嗅ぎ、味を確かめ、自分の言葉で「好きだ」と言った。
眠りは安定している。呼吸も深い。夜中に目を覚ますことは減った。
最初の夜のことは、あまり覚えていなさそう。
忘れることも、元気になるには必要なこと。
今日のパンは、米ではなく小麦で作った。
本来の味ではないが、よく噛み、よく笑った。
あの香りは、この土地とこの子のものになった。
──もう、大丈夫。
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