第4話:皇宮の影
冬宮の長い回廊には、冷ややかな空気が澱んでいた。
かつては誇り高く、気品に満ちていた空間。しかし今、そこには場違いな匂いが染み付いている。安酒の退廃的な香りと、洗っていない獣の毛皮、そして鼻を突く強烈な煙草の匂い――グリゴリー・ラスプーチンが通り過ぎた後の残り香だ。
アレクサンドラは、自室の豪奢な長椅子に身を沈めていた。窓の外からは、近衛兵たちの規則正しい足音と、雪を蹴る馬の嘶きが聞こえる。
「……皇后陛下、お耳を貸していただけますか」
静寂を破ったのは、長年彼女に仕えてきた老貴族、オリガ夫人だった。彼女の顔は、苦渋に歪んでいる。
「何かしら、オリガ。また『あの男』の話? せっかくアレクセイが穏やかに眠っているというのに」
アレクサンドラは、ティーカップの縁をなぞりながら冷淡に言った。磁器の擦れる「カチリ」という硬質な音が、拒絶の意志を象徴していた。
「陛下、市井の噂をご存知ないのですか。あのような卑しい農夫が、真昼間から宮殿を我が物顔で歩き、あろうことか夜な夜な貴婦人たちを集めて奇怪な儀式を行っていると。貴族たちの間では、もはや公然の怒りとなっております」
「怒り? 救世主を汚らわしい目で見る、彼らの心の卑しさが怒りを呼んでいるのでしょう」
「そうではありません! 彼は、陛下や皇帝陛下の信頼を盾に、人事にまで口を出そうとしています。国を、ロシアを壊そうとしているのです。どうか、あのような怪僧は遠ざけてください」
オリガ夫人が膝をつき、アレクサンドラのドレスの裾を掴んだ。その震える手。だが、アレクサンドラはその手を、まるで汚い虫を払うかのように冷たく振り払った。
「あなたたちには、あの人の『聖なる力』が見えないのね」
アレクサンドラの瞳には、かつての内気な少女の面影は微塵もなかった。そこにあるのは、選民意識と、愛する息子を失う恐怖が混ざり合った、硬く鋭い輝きだ。
「……私の血を呪い、私を嘲笑ったのは誰? アレクセイが痛みにのたうち回り、死の淵を彷徨っていたとき、名医と呼ばれる者たちが何をしたというの? 彼らはただ、肩をすくめて絶望を告げただけだわ!」
彼女は立ち上がり、激しく窓を指差した。
「でも、グリゴリーは違った。彼は祈りだけで、あの子の血を止めたのよ。神が遣わしたあの方を追い出すということは、私に『息子を殺せ』と言うのと同じだわ。いいえ、それは許さない。絶対に!」
「ですが、国が……」
「国? 私にとっての国は、この腕の中にいるアレクセイです! あの方がいなくなれば、あの子はまたあの地獄の苦しみに戻る。あなたたちは、あの子が泣き叫ぶ声を聴きたいの? その残酷さを、よくも忠告などと呼べたものね」
部屋の隅には、ラスプーチンが持ち込んだという古い皮袋が置かれ、そこから漂う独特の「野の匂い」が、洗練された香水の香りを圧倒していた。アレクサンドラはその匂いさえ、今は救済の証として、深く肺に吸い込んだ。
その日の夕刻、ニコライ二世が公務を終えて戻ってきた。彼の眉間には、深い疲れの皺が刻まれている。
「アリックス……。軍の将校たちからも、ラスプーチンについての苦情が届いている。一度、彼を村へ帰してはどうだろうか。少し時期を置けば、周囲の目も変わるかもしれない」
ニコライの弱々しい提案に、アレクサンドラは食ってかかった。
「ニッキー、あなたまで? あなたは、皇帝である前に、アレクセイの父親でしょう?」
彼女は夫の胸元を掴み、その瞳を覗き込んだ。
「あの方を追い出すということは、私たちの家族の絆を断ち切るということよ。あの人は『友人』なの。孤独な私たちが、唯一心を許せる友人……。それとも、あの無能な大臣たちの言葉を信じて、我が子の命を賭けの対象にするつもり?」
「……いや、そんなつもりは……」
「なら、二度とそんなことを言わないで。周囲の連中は、ただ嫉妬しているだけなの。私たちが彼らよりも高い境地で、神の奇跡に守られていることを妬んでいるのよ。不信心な彼らこそ、ロシアの真の敵だわ」
ニコライは溜息をつき、静かに視線を落とした。アレクサンドラの言葉は、もはや論理ではなく、信仰であり、妄信だった。
夜、アレクサンドラはアレクセイの寝顔を見つめていた。小さな、安らかな寝息。それを守るためなら、世界を敵に回しても構わない。たとえ、宮廷の影が濃くなり、信頼していた人々が一人、また一人と離れていこうとも。
彼女には聞こえていた。ラスプーチンが去り際に残した、あの野太い、自信に満ちた声が。
『母上、私がいる限り、あなたの太陽は沈みません。私を疑う者は、神を疑う者です』
「そう……その通りよ、グリゴリー」
彼女は暗闇の中で、独りごとのように呟いた。
外では、激しい吹雪が宮殿の窓を叩いている。その音は、まるで怒り狂った民衆の叫びのようにも聞こえたが、アレクサンドラはただ、温かな暖炉の火を見つめ、救世主への祈りを捧げ続けていた。
皇宮の影は、今や皇后の魂そのものを飲み込もうとしていた。
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