3.
広々とした大浴場の中にはほんの数人しか人はなく、身体を洗い終えた僕は、寒空の下の露天風呂に浸かることにした。温泉に身体を温められ、ぼんやりと雪のちらつく夜空を見上げながら、事件のことを思い返す。
三人の被害者は、学校から帰ったことは教員によって確認されている。しかしそれ以降の足取りは、明朝に自宅前の雪だるまの中から発見されるまで不明。家族は皆祭りの準備に忙しく、彼らが帰宅したかどうかも確認はしていない。ただ、部屋にランドセルが置かれていたことから、一度家には帰ったらしいとみられている。明朝に発見したのは家族で、嫌な予感がして雪だるまを崩してみたら、中から死亡していた被害者を発見した。この村で雪だるまというのは〝祟り〟を思わせ、不吉の象徴だったそうだ。被害者が行方不明だと気付いたのは夕方から夜にかけて。雪姫祭りに連れていこうとしたところ、姿が見えないことがこの時点で確認された。しかしこの時点では、友達と先に祭りに出掛けたのだろうと大ごとにせず、夜遅くになっても帰ってこなかったことでようやく行方不明だと判断されたそうだ。保護者も当然探したそうだが、当日は雪が舞っていて視界も良いとは言えず、捜索中の滑落等の二次的な事故の可能性もあるからと警察が捜索を引き継いだ結果、発見できないまま朝を迎え、雪だるまの発見に至る、というわけだ。
不思議なのは、保護者も警察も夜間に捜索していたにもかかわらず、朝になって雪だるまが突如現れたということだ。一か所に限って言えば、事前に用意した雪玉を置いて立ち去るだけなら大して時間がかかるわけではない。しかしながら捜索の目を盗んで設置するにしても、子どもが入っているほどの雪玉を隠し持って潜んでいられるとは思えない。ましてや、二軒は畑に囲まれていて隠れる場所などないのだから。
当然、雪に指紋は付かないし、遺体も凍っていたせいで死亡推定時刻はやや正確さに欠ける。行方不明になっていた間に殺害されたと思われるが、犯行時刻が絞れない以上、アリバイによって犯人を捜すことは難しい。路面は日中に少しとけた雪でぐちゃぐちゃになっていて、足跡やタイヤの跡は判別できなかったそうだ。雪だるまを発見した家族が踏み荒らしてしまったり、連日降り続いている雪が積もってしまったりと、警察が到着した時には現場の保存状態は極めて悪かったとのこと。
死因は窒息死ということだが、特別目立った外傷はない。裸にされて、膝を折りたたんで丸まった状態で発見されている。いくつか凍傷も確認されているが、恐らく窒息後に雪玉にされた際にできたものだろうとされている。口腔内を含め、鼻腔内にも凍傷のような痕が見られたが、遺体は大きく口を開いた状態だったため、こちらもそこに雪が詰められてできたものだと考えられている。
情報を整理してみたものの、これだけではまるでわからないな。やはり鍵になるのは雪姫伝説か。そしてそれが関わるというなら、やはりその本来の伝承を知る村の内部の人間が、少なくとも一人以上犯行に関わっているのは間違いない。雪姫伝説になぞらえているせいで動機もわからない以上、犯人像も絞れない。三人の被害者は学校では直接関わりがあったわけではないそうだし。犯人像が絞れない以上は犯行方法から考えていくしかないのだろう。そしてそれが可能だった人物が犯人である、という方向で考える。
そうなると、誘拐された被害者たちがどこで窒息死させられ、雪だるまとなるまでの間、どこに隠されていたのか、というのが肝になりそうだ。最終的に雪だるまとして遺棄する計画を立てていたのであれば、その前に遺体が見つからないようにと考えただろう。その間の隠し場所、隠した方法、そして凍死ではなく窒息死の理由。普通に考えると、どこかの民家に隠されていたのだろうか。しかし民家の中で外傷もなく窒息させることができるのか? 解剖結果では、一酸化炭素中毒ではなかったとされている。となると、家の中を密閉して低酸素状態にするくらいしか方法はないように思うが、それでは時間がかかり過ぎるし、その間にその民家の中には入れない。だから誰かの侵入を防ぐ見張りが必要になる。それに窒息に至るまでの間に被害者が脱出を試みたり、助けを求めたりというリスクも高い。ここまで計画性のある犯行で、そんなリスクを冒すだろうか。脱出もできず、助けも呼べない状況下で窒息させ、その遺体を誰にも発見させないまま夕方から早朝まで隠し通せる方法……。そんなものが本当にあるだろうか。
考えてもそれ以上何か進展があるわけでもなく、僕はのぼせる前に風呂を上がって、ひかりさんが出てくるのを待つことにした。
大浴場の前の待合スペースの長椅子に腰掛けていると、一人の老爺が男湯の方からやってきた。背の曲がったその老爺は、しわがれた手で自販機のボタンを押し、排出されたコーヒー牛乳のビンを拾い上げる。そしてこの広間には他に誰もいないのに、わざわざ僕の隣に座った。
「兄ちゃん、観光か? もうちっと早けりゃ、祭りだったのになぁ」
旅館で用意されている浴衣とは違う軽装の老爺は、何の気なしに僕に話しかけてきた。
「そうみたいですね。おじいさんは、この村の人ですか?」
「そうよ。村の
この老爺が村の人間だと確認が取れて、僕は探りを入れるべく話を続ける。ひかりさんが言っていたように、警察だと知れたら正直に話してくれないかもしれないし、敵視される可能性もある。嘘にはならない程度に自分のことは隠しながら、情報を引き出せればと思っていた。
「ちょうど良かったです。僕、各地の民話とか伝承とかを調べるのが趣味といいますか。それで今、雪姫伝説のことを調べてて」
雪姫伝説の名を出すと、老爺は露骨に声のトーンを落とした。〝祟り〟があって、雪姫伝説のことについてはナーバスになっているからだろうか。それとも、雪姫伝説のことを探られるのは、あまりいい気はしないのだろうか。
「ほーん。ありゃあ、あんま愉快な話ってわけでもねぇけどなぁ」
「なんでも、他の地方でいうところの雪女伝説に似た伝説だとお聞きしてたんですが、実際は少し違うみたいじゃないですか。それで、ちょっと興味深いなと思いまして」
「確かに、いわゆる雪女とはちぃっと違ぇわな」
くっくっと喉の奥で笑った老爺は、少し考え込むように、ぼうっと視線の先を見つめる。そのまま誰に言うでもなく、独り言をつぶやくようにぼそぼそと話し出した。
「そうさなぁ……ありゃあ、悪夢みたいなもんだ。誰も悪くなんてなかったのに、皆が悪くなっちまった。雪姫だなんて神格化しちゃあいるが、誰もそれを信じちゃいない。雪姫を祀るのは、贖罪みたいなもんだからなぁ……。……おっと、話し過ぎたか。忘れてくれ」
「……雪姫伝説って、本当は何なんですか? この村に、一体何が……?」
「おまえさん、あの伝説にはあんまり深入りするな。おまえさんも、〝祟り〟に遭うぞ」
だからさっきの話は忘れろ、と一言残して、老爺は重い腰を上げて去っていった。その背中がどうにも哀愁が漂って見えたのは、彼もまた、贖罪を背負っているからなのだろうか。
しかし現地の人間から貴重な話を聞けた。あの話は今回の事件とも無関係ではないだろう。しかしそうなると、やはり本来の雪姫伝説の内容をちゃんと知りたい。老爺の口ぶりからすると、彼は雪姫伝説の始まりを知っている――いや、体験しているのかもしれない。そうだとすると、雪姫伝説が生まれたのはそれほど昔の話というわけでもないのかもしれない。
しばらくして、ひかりさんが女湯の暖簾をくぐって出てきた。部屋に用意されていた浴衣に身を包み、長い髪はいつも通り一つに結っている。普段はスーツ姿しか見ることはないから、僕にはそれが新鮮だった。それに、しっかり温まってきたのかほんのり頬が上気しているようで、少し色っぽくも見える。
「お待たせしました」
「ああ、いえ」
どうやら僕も少しのぼせてしまったらしい。どうして僕は彼女と旅館に来ているんだったかと、本来の目的を忘れそうになっていた。はたはたと浴衣の裾をなびかせながらこちらへやってくる彼女は、それくらい可憐に見えて、彼女が傍にいるというだけでどうにも気恥ずかしくなってしまった。
「八壁さん、どうしました?」
「浴衣、お似合いですね」
「ふふっ、ありがとうございます。八壁さんも、お似合いですよ」
せっかくだからと僕も浴衣を着ていたが、思わぬ反応に困ってしまった。いや、僕も彼女を褒めたつもりで言ったのだが、言われた彼女も反応に困ったかもしれない。いざ言われる側になると、褒められるのは必ずしも嬉しいとは限らないのだと実感する。
「そうですかね。ありがとうございます」
ひかりさんはどうやら本当にこの旅館の中で単独行動をしたくないらしく、僕が部屋へ戻ろうと歩き出すと、急いで引っ付くように隣にやってきた。その手を取らないまでも、僕は彼女と歩調を合わせようと少し歩幅を縮めて歩く。もし僕に妹がいたなら、こんな感じなのかもしれないなと、そんなことを思う。隣を見れば、どこか上機嫌な様子の彼女がいる。灯篭を模した明かりが照らす、長く薄暗い廊下は不気味なくらい静かで、僕らの足音と床板の軋む音だけが響いていた。
「風流と言えば聞こえはいいですが、何か出そうですよね」
ひかりさんがぼそりとつぶやいたその言葉は、僕に先ほどの老爺の言葉を思い起こさせた。この宿では「雪姫の祟りで死んだ」人はいるのだろうか。〝祟り〟だなんて非科学的なものは信じていないが、冬の寒さのせいか、はたまた雰囲気に呑まれたのか、少しばかり身を震わすような恐ろしさを感じてしまった。
「本当に出たらどうするんです?」
「その時は……八壁さんを生贄にして見逃してもらいます」
「……ひどいこと言うじゃないですか」
冗談ですよ、とひかりさんが笑みを見せる。その悪戯っぽい笑みがあまりにもいつも通りだったので、僕は先ほど感じた恐ろしさを振り払うことができた。もし何かが起きるとしても、彼女だけは守ってやらないといけない。その笑みを守ってやらないといけないと、そんな風に思った。
部屋に戻ってきたときには、時刻はもうすぐ午後七時になるかというところ。ゆっくり腰を下ろしている暇もなく、部屋の扉がノックされた。午後七時には部屋に夕食が運び込まれるため、その時間までに部屋に戻ってこられない場合には、フロントに連絡を入れるよう〝ご利用の手引き〟に記されていた。
ひかりさんに座卓の上を片してもらっている間に僕が応対し、料理を運び入れてもらった。和風旅館らしく懐石料理のように一品一品が小さなお皿に盛り付けられ、色とりどりの様々な料理が卓上に並べられていく。中でもこの旅館の自慢の一品は、地元で採れた山菜の天ぷらだという。
「すごいですね。こんな豪勢な食事をいただいてしまって良いんですか……?」
僕らは遊びに来ているわけではなく、捜査に来ているのだ。こんな贅沢をしてしまって罰が当たらないだろうか。僕が心配するように尋ねれば、ひかりさんは目を輝かせながら返す。
「大丈夫ですよ。部屋を一部屋にしているおかげで、通常の二人出張より宿泊経費が安く済んでいますから、その分で食事のグレードを上げてもらったんです。それでも総額で言えば通常より安いくらいですから、何も気にせずに栄養を摂りましょう。じゃないと頭働かないですもんね」
なるほど。前者は書類上の建前で、後者はひかりさん個人の建前のようだ。経費が安く済むならそれはそれで良いはずだし、わざわざグレードアップさせる必要はない。しかし本当は美味しい料理が食べたかったからに違いないのだろう。しかしその建前のおかげで、僕も普段なら滅多に食べられないようなご馳走にありつけるのだから、彼女に感謝しなくてはいけない。
「では、いただきます」
「いただきます」
互いに料理を前に手を合わせて、箸を取る。食事を終えたら今日現場を見て回って気付いたことと資料とを見比べながら頭を悩ませなくてはならない。だからアルコールは無しだ。アルコールなんかなくても、美味しいごはんはするすると喉を通っていき、手も止まらない。
「この半熟たまごの天ぷらって、ゆでたまごを作ってから揚げるんですよね? なのに中は半熟のままなんですね」
僕はふと、食べていて気になったことを口にする。
「中まで火を通さないように、衣だけ揚げる感覚で作るんですよ。家庭で作るなら、冷凍卵に衣を付けてじっくり揚げる、という手もありますが」
長い時間をかけて揚げてしまうと、中まで火が通ってしまい、半熟ではなく完熟ゆでたまごの天ぷらになってしまうというわけか。
「加工済みのものに衣をつける、と。しかし他の天ぷらは、基本的には衣と一緒に中身も火を通すような感じですよね」
「もしかして八壁さん……食事しながら事件のこと考えてます?」
ひかりさんの手が止まり、じとっとしたような眼でこちらを見つめられる。いや、睨まれるという方が正しいかもしれない。
「いや、ずっと不思議で。あれです、卵が先か鶏が先か、みたいな」
「全然違うと思いますが……。殺害してから雪玉にしたのか、生きたまま雪玉にして殺したのか、ということですよね。まだ天ぷらのたとえの方が近い気がします。たとえとしては最悪ですが」
しかしながら実際のところどうなのだろう。ずっと引っかかるのは窒息死だ。口の中にまで凍傷が見られたというのは、口の中に雪を詰められたのだろうか。それで窒息になるのだろうか。雪なら柔らかいし、ある程度は体温でとけるだろう。やはり低体温症より先に窒息するほどとは思えない。だとしたらやはり調理後――どこかで窒息死させた後に、雪玉にしたと考える方が自然だ。
「すみません……。しかし窒息させてから雪玉にしたと考えると、今度はどうやって窒息させたのかというのが気になるんです。遺体に索状痕も吉川線も見られなかったというのは、少なくとも物理的に呼吸器を絞められて窒息させられたわけではなさそうということですよね。であれば、意識がない中、酸欠によって窒息したと考えるしかない。一酸化炭素中毒でもない、純粋な酸欠……そんなことが起こり得るでしょうか」
「純粋な酸欠となると、密閉された空間内の酸素濃度を薄くすることになりますから、何かしらの機材がないと不可能ではないかと思います。手っ取り早いのは確かに、火を点けて空間内の酸素を消費することですが……それでは一酸化炭素中毒になる可能性の方が高いですからね。もしかしたらこうした農村地域で使われる農具で、真空を作り出せる機械があったりするかもしれませんね。もしそうだとしたら、可能なんじゃないですか?」
ここは都会ではないし、一般的な家庭には見られないような機械を所持していても何ら怪しいことはない。そうした機械の中に、今回の犯行を可能にしたものがある可能性は、確かにある。
「それか、実は窒息死ではない、とか」
「司法解剖の結果を疑うべき、ということですか?」
「そこまでは言いませんが、窒息死と判断したのは何故なのか、ということです。例えばですが、近い症状で溺死の可能性はないですか?」
「しかし溺死だと肺に水が入っているはずです。今回の解剖結果ではそれが確認されなかった――厳密にはわずかにありましたが、恐らく口腔内から侵入した雪解け水かと思われますので、少なくとも溺死ではないでしょう。それに、薬物の類も検出されなかったようですし、何らかの中毒症状とも考えにくい……。とはいえ、確かに溺死であれば殺害すること自体はそれほど難しくはなかったかもしれませんね。被害者はまだ子どもですし」
窒息に似た症状、窒息死と判断されてもおかしくない症状……そう考えると、血中の酸素濃度を低下させたり、脳への酸素供給を減少させたりすることでも近しい状態を引き起こすことができるように思う。その方法は、確かに酸欠や縊死、溺死だけとは限らない。
せっかく美味しい料理を食べていたのに、事件の話を出して少し彼女の気分を害してしまったかもしれない。そう思ったが、むしろその後も彼女の方から進んで考察の続きをしようと提案してきた。
食器を下げてもらってから、僕らは竹之中さんから渡された追加の資料を卓上に広げ、交互に目を通していく。今回の事件現場ではないが、事件とも関係があると思われる、雪姫祭りが開催されていた雪姫神社周辺の情報のようだ。
雪姫神社はこの村の中でも標高の高いところにあり、本殿へ続く道は入り組んでいて、道を間違えると崖に出てしまうらしい。この崖は住民たちでも雪道で足を取られて転落してしまったり、ハンドルを取られて車ごと落ちてしまうということもあったようで、柵を設置するなどの対策をしてはいるが、それでも万全とは言えないそうだ。崖下には川が流れており、お祭りの時期は観光客が捨てたゴミが散乱するため、お祭り後の日中にボランティアで清掃活動を行っているらしい。今回も雪姫祭りの翌々日に回収作業が行われたそうだ。何かの手掛かりになるかもしれないということで、今回回収したゴミの一覧を写真付きでまとめてくれていた。〝祟り〟だと怯えている割りには、長野県警も几帳面な仕事をしてくれる。
「このゴミ、なかなかひどいですね……」
こうしてリストで見てみると、観光客の民度の低さが浮き彫りになるようなゴミの数々。お菓子のゴミや屋台の食品のゴミ、缶やペットボトル、ポリ袋に始まり、手袋や靴、しまいにはキャリーケースまで捨てられていた。
「キャリーケースを捨てるって……持ち主はどうやって帰ったんでしょう。使い捨てのものしか持ってきてなかったんでしょうか?」
ひかりさんの疑問はもっともで、少なくともここにやってきた観光客が捨てたものとして考えると、その理由は思い付かない。
「だとしても、捨てていきますかね……。キャリーケースそのものも使い捨てということですか? だとしたら、ケースの中にゴミを詰めて捨てそうなものですが……」
発見されたケースの中には何もなく、崖下に落とされた時にできたと思われる傷や汚れはあるものの、ほとんど新品のようだったらしい。わざわざ捨てていくようなものだとは思えない。
リストをよくよく見ていると、これらのゴミの中には他にもどう見ても観光客が捨てたものではなさそうなものも混じっていた。回収したこれらのゴミを処分する費用は自治体が持つことになっている。恐らくだが、この機会であれば粗大ゴミも自治体のお金で処分してもらえると踏んだ住民のものなのだろう。逆にこれだけのゴミの山は、子どもたちにとっては宝の山であることもある。人知れず誘拐するにあたって、ここは子どもたちを誘い出すにはうってつけの場所だったのではないだろうかとも考えられる。
一応、崖下へは石階段と、車が下りることができる坂道があり、崖上と行き来ができるようにはなっているそうだ。雪の降り積もる石階段を上り下りするのは危険過ぎるので、村人の誰かが崖下まで車を出してあげると言って子どもたちを連れ出したのかもしれない。ただ現状、崖下で被害者たちの痕跡は見つかっていないそうだ。事件があったことで本来の清掃日よりも一日ずらして清掃を行うことになり、事件翌日に警察が捜査しても何も見つからず、事件翌々日に清掃を行っても成果はなかったという。
「少なくとも被害者たちがこの崖下に行ったというだけでもわかれば良かったんですが……。何も出ないとなると、ここには行っていないんですかね」
「こういう時、都会だったら防犯カメラなんかがあって、すぐにわかるんですけど……。ドライブレコーダーくらいはあるかもしれませんが、あっても吹雪の中じゃ、あまり当てにできないですもんね。っていうか、これじゃあ私がいる意味ってほとんどないですよね……? 今更ですけど」
ひかりさんの所属する技術支援係は、主に防犯カメラやスマートフォンなどのデータ解析から証拠を集めていく部署だ。この田舎では、彼女がいかに凄腕の分析官であってもその腕前を発揮する機会はほとんどないだろう。それにも関わらず所長が彼女にこの件を任せたのは、現場を経験させる以外にも何か意図があるのだろうか。
「いえいえ、ひかりさんはデータ解析以外にも、僕にはない視点のひらめきをくれますから。頼りにしてますよ」
「プレッシャーかけないでくださいよ……。この事件、八壁さんは解決できると思いますか? 今のところ私は、犯人にも犯行方法にも何の見当もついていないんですが……」
ひかりさんは随分と弱気だが、解決できなかったという結果は何としても避けなければならない。それは彼女もわかっているだろうが、彼女の武器であるデジタルの分析ができないことで、力不足を感じているのかもしれない。だが、彼女の武器の本質はデジタルだけではなくて、溢れかえる煩雑化した情報を統合的に分析できる能力だと僕は思っている。今回のような、それぞれには大した繋がりのないような情報の数々を、解体して再構築し、紐づける思考力。僕にはないひらめきというものの正体がそれだと思っている。きっとまだそれができないということは、必要な情報が足りていないのだろう。ずっと僕と共に行動しているから、一人で集中できる時間も少ないのかもしれない。どうにか彼女の強みを発揮できる環境を整えてあげる必要があるのかもしれないな。
「解決できるかどうかというより……できないとマズいですよね、色々と。まあ、すぐに判断するのは難しいでしょう。明日は雪姫神社に行きますから、ついでに崖の下も見てみましょうか」
時計を見てみれば、午後十一時を過ぎた頃だった。明日も朝の七時には朝食が運ばれてくることになっている。それまでに起きられるよう、あまり夜更かしはしない方が良いだろう。
「そろそろ寝ましょうか」
「そうですね」
押入れの中にしまってあった布団を引っ張り出してきて、畳の上に敷く。
広い部屋ではあるが、空間を仕切るものがない。座卓を部屋の隅に押しやって、スペースを空けてそれぞれの布団を敷くくらいしか工夫ができなかった。
「あれ、そんなに離れちゃうんですか?」
なんて言いながら、ひかりさんが少し寂しそうに、わずかに布団をこちらに寄せてくる。
「あんまり近いと、蹴飛ばされても嫌なので」
「ひどいですね。私、そんなに寝相悪くないですよ」
わざと意地悪く言えば、彼女もわざとらしくむくれてみせる。彼女が僕に対して気を許してくれているようなのは嬉しいが、あくまで僕らはただの同僚に過ぎない。距離が近すぎるのも考えものだ。この相部屋は不可抗力のようなものだし、あまり調子に乗って甘え甘やかすようなことをするのは良くないのではないか。そんな僕の考えを吹き飛ばすように、ひかりさんは屈託のない笑顔を向けてくる。
「何だかお泊り会みたいでわくわくしますね。寝られるでしょうか」
彼女は恐らく、僕のようにあれこれ考えてなどいないのだろう。僕ばかりが考え過ぎて空回っているようで、滑稽に思えてしまう。
「寝ないと、明日起きられませんよ?」
「そうは言われてもですね……。恋バナでもしますか?」
彼女にしてみれば、どうやら女子会のノリのようだ。僕は女友達か何かだと思われているのだろうか。だとすれば彼女が僕と相部屋にしたのも、こうしてやたらと距離が近いのも納得だ。彼女が仮にそう認識していても、実際には僕は男なのだから、ある程度の線引きはしてほしいものだが。
「電気、暗くしますよ」
強引に部屋の電気を一段暗くして、橙色の豆電球の明かりが部屋を包む。外は生憎の雪模様だが、雪が反射した白々とした光が障子越しでも明るく照らしてくる。渋々といった様子で布団に入るひかりさんとは反対側を向いて、僕も布団に入った。電気を完全に消しても外が明るくて、部屋の中は真っ暗とはいかない。それでも会話がなくなれば、部屋はしんとした静寂に包まれて、かえって言いようのない緊張を感じてしまう。意識しないようにしていても、僕のものではない呼吸音と、布団の中でもぞもぞと動く音が聞こえてくる。
「……八壁さんは、私と一緒でも緊張とかしないんですか?」
「しますよ。しないように見せてるだけです」
「……そう、ですか」
それきり少しの間があって、また彼女の方から声が聞こえた。
「おやすみなさい、八壁さん」
その声におやすみなさいと返して瞼を下ろすと、自然と眠気に抗えなくなって、僕はそのまま眠りに落ちていった。
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