最速の帰宅部、箱根を走る。 ~システムから弾かれた「バグ(天才)」たちと、箱根駅伝をハックする~
フレンドリーク
第1話:激坂のママチャリ・ダイアリー
キーンコーンカーンコーン……。
間延びしたチャイムの音が、山間の校舎に響き渡る。
その音は、俺にとってゴングと同じだ。
戦いの始まりを告げる、無慈悲で、しかし待ち望んでいた号砲。
「——はい、じゃあ今日はここまで。明日は校内ロードレース大会だぞー。全員、ジャージ忘れるなよー」
担任教師の気の抜けた声が鼓膜を滑る。
クラスメイトたちがざわめき立ち、机を動かす音、鞄のチャックを開ける音が教室を満たす。
放課後の約束、部活動への移動、ダラダラとした雑談。
青春を謳歌する高校生たちの、ありふれた喧騒。
だが、俺——湊(みなと)カケルは、そのどれにも属さない。
「…………」
俺は無言で立ち上がり、誰よりも早く教室の後ろの扉に手をかけた。
友人? いない。
部活? 入っていない。
彼女? 存在するわけがない。
俺にあるのは、たった一つの強烈な欲求だけだ。
(帰りたい)
脳内を埋め尽くすのは、その四文字のみ。
家に帰りたい。
自分の部屋の、あの少し硬めのベッドにダイブしたい。
誰にも邪魔されず、スマホをいじりながら惰眠を貪りたい。
そのためには、今すぐここを出なければならない。
1秒の遅れが、帰宅時間の1分の遅れに繋がる。
俺の高校生活は、いかにして「学校」という拘束空間から最速で脱出するかという、タイムアタックの連続だった。
廊下を早歩きで抜け、昇降口で上履きからスニーカーに履き替える。
靴紐を結ぶ手つきに迷いはない。
完璧なテンション(張力)で締め上げられた紐は、俺の足と靴を一体化させる。
校舎を出ると、10月の冷たい風が頬を撫でた。
目の前には、夕焼けに染まり始めた南アルプスの山々が、巨大な壁のようにそびえ立っている。
美しい景色だ、と観光客なら言うだろう。
だが、俺にとっては違う。
「……あいつが、待ってる」
俺は駐輪場の隅へと向かった。
そこには、俺の相棒にして、最大の敵が鎮座している。
銀色のフレームは所々錆びつき、泥除けは凹んでいる。
前カゴには何かにぶつかったような歪みがあり、サドルはひび割れている。
ホームセンターで9800円で売られていた、安物のシティサイクル。
通称「ママチャリ」。
変速機? ついていない。
電動アシスト? そんな高級な機能、ついているわけがない。
重量、約20kg。
鉄塊と呼ぶにふさわしい重厚感。
俺は無造作に鞄を前カゴに放り込み、またがった。
ギシッ、とサドルが悲鳴を上げる。
「行くぞ」
誰に聞かせるでもなく呟き、俺は右足をペダルに乗せた。
ここから家まで、片道15km。
ただの15kmではない。
標高差800m。
平均勾配5%、最大勾配12%を超える激坂が続く、地獄のデスロードだ。
普通の高校生なら、バスか親の送迎を使う。
あるいは、電動自転車を買ってもらうだろう。
だが、うちは貧乏で、バス停は家から徒歩30分だ。
選択肢はこれしかなかった。
3年間。
雨の日も、風の日も、雪が舞う日も。
俺はこの鉄塊と共に、山を登り続けてきた。
全ては、早く帰って寝るために。
クランクが回り始める。
俺の帰宅部としての、孤独な闘走(レース)が始まった。
***
校門を出て最初の2kmは、緩やかな下り坂だ。
ここで勢いをつける。
重力を味方につけ、ペダルを回す回転数(ケイデンス)を上げていく。
風切り音が耳元で唸りを上げ、景色が後方へと飛び去っていく。
時速40km。 ママチャリとしては危険な領域だが、俺の動体視力は路面の小石一つ見逃さない。 この区間で稼げるタイムは数分だが、その数分が重要だ。
だが、楽園はすぐに終わる。
市街地を抜け、県道に入った瞬間、世界が牙を剥く。
「……ここからか」
目の前に現れたのは、空に向かって伸びるような急勾配のアスファルト。
通称「心臓破りの七曲がり」。
ここから先、家までの13kmはずっと登りだ。
普通の人間なら、ここで自転車を降りて押すだろう。 あるいは、立ち漕ぎ(ダンシング)で体重をかけて無理やり登る。 だが、俺は座ったままだ。
シッティング。
サドルにどっしりと腰を落ち着け、上半身をリラックスさせる。
ハンドルは軽く添えるだけ。
力むのは、大腿四頭筋とハムストリングスのみ。
ギッ、ギッ、ギッ、ギッ。
一定のリズムでチェーンが軋む。
重力という巨大な手が、俺の身体を後ろへと引きずり戻そうとする。
20kgの車体と、5kgの鞄。そして俺自身の体重。
全てが負荷となって太ももにのしかかる。
熱い。
太ももの筋肉が、熱を帯びて膨張するのがわかる。
血管という血管が拡張し、血液が奔流となって下半身へ送り込まれる。
肺が酸素を求める。
スウッ、ハアッ。スウッ、ハアッ。
呼吸のリズムを一定に保つ。
乱れれば終わりだ。酸素供給が追いつかなくなり、乳酸が溜まって足が止まる。
(今日の風向きは北北西……向かい風か。最悪だ)
俺は冷静に状況を分析する。
向かい風なら、その分だけ出力を上げればいい。
単純な物理法則だ。
ペダルを踏み込む力を、ほんの数ニュートン増やす。
それだけで、速度は維持できる。
俺の横を、軽自動車がエンジンを唸らせて追い抜いていく。 運転席の老婆が、ぎょっとした顔でこちらを見ていた。
無理もない。 この勾配を、立ち漕ぎもせず、涼しい顔でママチャリが進んでいるのだから。 しかも、速度は時速20km近く出ている。 原付バイクと大差ない速度だ。
キツイことはキツイが、止まるという選択肢は俺の辞書にはない。 なぜなら、止まれば帰るのが遅くなるからだ。
「……あと、8km」
中間地点のコンビニ(潰れて廃墟になっている)を通過。
タイムを確認する。
いつもより15秒速い。
悪くないペースだ。
俺の身体は、この3年間で完全に「登坂仕様」に改造されていた。
毎日の激坂通学。
それは、実質的に高地トレーニングと高負荷ウェイトトレーニングを同時に行っているようなものだ。
ただし、自転車のペダリングという動作は、ランニングとは使う筋肉が微妙に異なる。 地面を蹴る衝撃がない分、純粋な筋持久力と心肺機能だけが極限まで研ぎ澄まされる。
特に、この「変速機なし」というのが大きい。
ギアを軽くして逃げることができない。
常にトップギア。
急勾配だろうが何だろうが、己の筋肉でねじ伏せるしかない。
その結果、俺の大腿筋は、常人のそれとは異なる進化を遂げていた。
太く、硬く、そしてバネのようにしなやか。
一踏みごとに地面を掴み、重力を殺し、車体を前へと押し出す圧倒的なトルク。
それは後に、箱根駅伝の「山の神」たちすら戦慄させる武器になるのだが、今の俺は知る由もない。
俺にとってこれは、ただの「移動」だ。
「……ん?」
ふと、前方にロードバイクに乗った集団が見えた。
ピチピチのサイクルジャージに身を包み、高級そうなカーボンフレームの自転車に乗っている。
ヘルメット、サングラス、ビンディングシューズ。
完全装備のサイクリストたちだ。
週末になると、この峠道にはよく練習に来る人たちがいる。
彼らはゼエゼエと荒い息を吐きながら、軽いギアをクルクルと回して登っている。
必死の形相だ。
趣味でこんな坂を登るなんて、ドMにも程がある。
俺は邪魔にならないように、道路の端、白線のギリギリ外側をキープしたまま、一定のペースで近づいていく。
彼らの速度は時速10km〜12km程度。
俺の速度は時速18km。
相対速度差、約6km。
あっという間に追いつく。
「うわっ、なんだ!?」
最後尾の男が、背後から迫る異様な音に気づいて振り返った。
ゴゴゴゴゴ……という、ママチャリ特有の重低音。
俺は無表情で、軽く会釈をして抜き去る。
「は……?」
「え、ちょ、嘘だろ?」
「ママチャリ……!?」
「なんで座ったままなんだよ!」
サイクリストたちの驚愕の声が、風に流されていく。
彼らが数百万円かけて軽量化した機材を、9800円の鉄塊がぶち抜いていく光景。
理不尽極まりないが、物理法則は残酷だ。
出力(パワー)が違えば、機材の差など誤差でしかない。
俺は彼らを一瞥もしない。
興味がないからだ。
彼らは「登ること」が目的だが、俺は「帰ること」が目的だ。
目的意識のレベルが違う。
そのまま集団を置き去りにし、俺はさらにペダルを踏み込んだ。
標高が上がるにつれ、空気が薄くなるのを感じる。
だが、それすらも心地いい。
酸素が薄くなればなるほど、俺の血中のヘモグロビンが活性化し、より効率的に酸素を運搬し始める。
ゾーンに入った感覚。
思考がクリアになり、世界がスローモーションに見える。
(……今日の夕飯、なんだろうな)
ハンバーグだといいな。 いや、昨日は生姜焼きだったから、今日は魚かもしれない。 帰ったら風呂に入ろう。 熱いシャワーを浴びて、炭酸を飲んで、布団にダイブする。
その至福の瞬間(イメージ)を燃料に、俺は最後まで力を振り絞る。 限界を超えたペダリング。 チェーンが千切れんばかりに張り詰める。
そして——。
ガシャーン!
自宅の前の砂利道に滑り込み、俺は自転車を止めた。 スタンドを蹴り上げ、腕時計を見る。
「……48分32秒」
自己ベスト更新だ。
15km、獲得標高800mを、ママチャリで48分。
このタイムの異常さに気づく人間は、この田舎町には誰もいない。
「ただいまー」
汗だくのシャツが肌に張り付く不快感を覚えながら、俺は玄関のドアを開けた。
家の中からは、味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
「あら、おかえりカケル。早かったわね」
台所から母の声が聞こえる。
俺は靴を脱ぎ捨て、廊下を歩きながら答えた。
「ああ……疲れた。飯まで寝る」 「ちゃんと風呂入ってからにしなさいよ」
階段を上り、自分の部屋に入る。
鞄を放り投げ、ベッドに倒れ込む。
ギシッ、とスプリングが沈む音が、俺を安息の世界へと誘う。
天井を見上げながら、大きく息を吐いた。
心臓の鼓動が、まだドクドクと耳元で鳴っている。
全身の筋肉が熱を持っている。
だが、この疲労感こそが、一日の終わりを告げる証だ。
今日も、勝った。
学校という名の監獄から、最短時間で帰還した。
その達成感に包まれながら、俺はゆっくりと瞼を閉じる。
明日、学校で「校内ロードレース大会」があることなど、俺の意識の片隅にもなかった。
あんなものは、俺にとってはただの「長い散歩」でしかない。
走って帰るか、自転車で帰るかの違いだけだ。
だが、俺はまだ知らない。
その「散歩」が、俺の静かな日常を崩壊させる引き金になることを。
そして、一人の少女の人生を狂わせることになることを。
俺の脚は、いつの間にか「兵器」になっていたのだ。
誰よりも速く帰りたいと願っただけの、その純粋な欲望によって。
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