9話
ライティングのテストの補習があって、放課後に居残りをさせられた。視聴覚室という大学の講義室の縮小版のような部屋には、頭の悪い多数の3年生が集められていた。その中に、無砂利場さんの姿もあった。「頭が悪い」と言ったことを、頭の中で「運が悪かった」と訂正した。
あの人は何も覚えていない。川村さんに捕まっていたことも、俺に手を取られ教室を抜け出し、廊下を走って職員棟三階の図書室まで駆け上がったことの、何一つ覚えていない。どころか俺はは、「ある日、図書室の入り口で親し気に話しかけてきた、変な他人」くらいの印象を持たれている可能性がある。あれから偶に、いつものように目が合うことがある。以前はなんてことない、俺しか「意識」しない、日常の中のちっぽけな瞬間だったのに、無砂利場さんは苦笑いをするようになった。微かなもので、多分、俺しか気づいてない。どんな顔をすればいいのか分からず、俺は斜め下に目線を落とし、さり気なく顔を伏せる。嫌がられている気がした。
濃霧は、あのときの何もかもをそれ以前へと持って帰った。川村さんの言った通りだ、霧は「今」にしか作用しない。過去は変えてくれない。実に都合よく未来すらも変えない。川村さんはそれを、濃霧を、青春と例えた。俺のこれも青春で、ということは今にしか作用せず、ある日突然、何事もなかったかのように終わってしまうのだろうか。誠は言った――いつまでも高校生じゃない、あと一年もしないうちにこの日常も終わる。言葉では分かっている――そう思っていたのに、俺は何も分かっていなかった。今は実感する。誠の言った意味も分かる。だけど話しかけることができない。
六月に入っても五月の憂鬱が引かない。
傷つきたくない、それだけだ。
自分が臆病者だということは分かっている、だから見つめるだけで精一杯なんだ。人は他人の心を想像や思い込みでしか理解することはできないから――つまり理解できないから、分からせるには言葉で伝えるしかない。想いは言葉にしないと伝わらないと誰かが言っていた。それでも傷つきたくなくても、もう彼女を二年以上見つめている。仮に伝えても、自分にとって良い答えが返ってくる保証はなく、悪い答えが返ってくる可能性の方が高い。世界の多くがネガティブによって出来ていることを俺は知っている。
俺はおそらく信じているんだ、いつかこの想いが報われると。では何を信じているんだ? 自分を信じているのか? 無砂利場さんを信じているのか? どこかの神を信じているのか?
それでも俺は何かを信じている。見えない何かを感じ、助けを求めている。
周りの声やあらゆるものからの影響を受けやすい、傷つきやすい俺は、いつからか彼女には誰か恋人がいるんじゃないかと思うようになっていた。当たり前だ、高校生なんだからいたって不思議じゃない。それから毎晩毎晩、目の奥や頭や胸が熱くなる。何かすべてをぐちゃぐちゃにしたくなるような痛みに襲われて、電気もすべて消してしまった部屋の中、深夜、ベッドに横になりながら、強く目を瞑る。すると星々の煌めく宇宙の中にあるような感覚に陥って、高速で思考の旅をする。俺はどんどん強く目を瞑って、物事の真理を探そうとする。現状から抜け出す術を渇望する。その果てに、不幸の骨頂に辿り着いたような気がして目を開ける。
左目の際から涙が流れていた。
この痛みを知ってほしい。知ってくれたら、きっとこの想いは伝わるはずだ。でも部屋には誰もいなかった。
教室の席に座っても孤独しかなく、周りにはマネキンのような他人しかいない。気付くと南の窓へ視線を向け、空を見つめ何かに助けを求めている。すれちがうたび、揺れるその後ろ髪を見て、自分でも理解できないほど、俺は無砂利場さんが好きなのだと理解する。俺は彼女とすれ違うよう意図的に自分の行動を仕向けていた。それに気づいてからは自分を客観視しないようにした。それでふと思ったのは、彼女に恋人がいた場合、その行為のすべてが気持ち悪いだけの何ものでもなくなってしまうのでは、ということだった。でなくとも気持ちが悪い。彼女の心が知りたい。目が合うと無砂利場さんも俺と同じ気持ちなのではと思う瞬間があった。その逆もまたあった。それで分からなくなった。無砂利場さんの心が分からない、どうすればいいのか、どうすれば伝わるのか分からない。
誠は手助けをしてくれているようだった。クラスが同じだから、あいつは無砂利場さんとも話すことがあって、彼女の好きなミュージシャンは誰々だとか、彼女の好むお菓子は表紙に動物の絵の描かれたチョコレートクッキーだとか、そんなことを教えてくれた。ときどき、そんな誠が俺を嘲笑っているような気がした。「お前には無理だ」――俺は人を信じられなくなっていた。
不意に濃霧がやってきて、すると教室が白界となった。周囲の生徒はマネキンと化す。俺は一人なんだと実感し、その瞬間、俺と彼女だけの世界が成立し始める。俺はそれでいいと考えた。
「彼女と俺以外、他の誰も、この世界には必要ない……」
「そんなことを言っているあいだにも、霧は過ぎ去ってしまうよ」
教壇に、川村さんの姿があった。優しい、穏やかな顔をしていた。
「だけど、あの人の周りにいる誰もが、目障りに思えてくるんです」
「できれば消えてほしい?」
「はい」
「存在していた証拠もすべて、一緒に?」
「はい」
川村さんは南の窓際へ歩いて、カーテンを開けた。一つしか開けていないのに、他のすべてのカーテンも同時に開いた。
「この世界には彼女と僕以外、生物は存在しなかった――かつて、僕もそう願った。できることならそんな世界を作りたかった。僕はね、今でもこの彼女を愛しているんだ。もうすっかり美化されてしまい、存在しえないと分かっていてもね」
「……存在しないんですか?」
「だってそうだろ? 君が想い、見つめているのは彼女かもしれないが、彼女では決してない」
「どういう意味ですか?」
「他者とは、どうにでも変形しうるオブジェであるべきだと昭和の文豪は言ったよ。それを人は欲求するんだと――然るに相手が思うようにならない、そうなると関係は難しくなってくる。ではオブジェとは何か、これはつまり事物だが」
「だから何が言いたいんですか」
「分かっているだろう。君にとって彼女はオブジェでしかない。なぜなら君は彼女の何一つ知らないのだから。主体性なき他者として見て、性欲を抱き、それを恋だの愛だのと勘違いしている。哲学者サルトルの猥褻感とは、他者を事物として性欲を抱くというところにある。君にとっての彼女とはただの猥褻物に過ぎない。君のそのホルモン過多による性欲を満たすには、彼女の主体的思想は邪魔でしかない」
「違います……」
「初恋とはヴィーナスだ。腕の無い女性像を脳内で復元し、想像しては壊し、君はそれをこの先も繰り返すだろう。本当の彼女――などと言って憧れ続けるのさ。君は彼女のことを何も知らない、なのに顔の目鼻立ちやプロポーションだけ見て、綺麗だとか可愛いとか、そんなことを想いながら中身を想像で理想的に埋めているんだ。だがいくら想像力を働かせようと、あるいは君がいくら感性に優れていようとも、ヴィーナス像には腕はない。そしてヴィーナス像はただのオブジェだ。君にとっての彼女は、完璧なまでに君の主観によって形作られた事物だ。妄想によって縛られた、君においての究極的な猥褻物だ。それが君の青春の、淡い初恋の正体だよ」
川村さんはカーテンを閉めた。念動力を使ったみいたいに他のすべても同時に閉じられ、教室の全体は薄暗くなった。
「……無砂利場さんを想うことが、俺のこれが不純だって言いたいですか?」
「若者の世界に蔓延る片想いや恋心を見て、大人はよく『青春だね』などと言って風情に巻き込む。大人の社会では片想いも秘めた瞬間にストーカーだ、潔く告白してセクハラとか言われてしまうケースもある。霜月くん、まさに僕は、そういった気持ちの悪い存在になってしまったんだよ。いつまでも高校生の頃の恋を引きずって、思い出しては憂鬱になる。未確認の、存在証明不可能な、実害なきストーカーだ」
「素直に告白して、それで、ふられる景色が目に浮かぶんです……」
「だろうな。でも青春はいつまでも続かない。ここにいられるのは、あと数カ月とかそんなもんじゃない。今だけだ。晴れたあとになって、そこで振り返って気付くのさ……そうか、あれは濃霧だったんだなって」
川村さんは言った。
「でも、それは違うんじゃないのか?」
「……何がですか?」
「君が怯えているのは、ふられることじゃない。君には何か、誰にも言えない、知られたくない秘密があるんじゃないのか? 君はそれを隠しているんだろ?」
「……何の話ですか、そんなものありまっ」
「あるんだよ!」腹から出したような声だった。「それがいつか彼女に知れて、そのとき、彼女が自分をどんな目で見るのか……君はそれを想像するんだ。なによりも一番想像するんだ。そうだろ?」
「もういいです。あなたと話すことなんて何もない」
「親密になるほど裏切ったときの反動はでかいもんな、分かるよ。君は顔も悪くない。それで意外といけるんじゃないかって浅く考えたりもする」
「もういいですって」
「だけど反動が怖くて動けないんだ」
「いい加減にしてください!」
「なぜなら君は――」
「川村さん!」
「人殺し」
「……」
「……だもんな?」
日光を遮るカーテン。薄暗く、しんと沈んだ教室。窓際には、魚の黒眼が浮かんでいた。
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