呼吸する空白

Towa

第1話

 恒一は朝の光に目を開けると、まず自分の呼吸の感覚に違和感を覚えた。胸の奥で響く規則正しい音は、なぜか微かに自分の意思とはずれている。

 これまで感じたことのない重さと遅れ――まるで身体の内部に、もう一つの意思が忍び込んでいるかのようだった。


 手を伸ばして布団を払うと、指先の動きがわずかに鈍い。ペンを握れば、紙に触れる感覚が微妙に遅れ、文字の線が不自然に曲がる。

 恒一は瞬間、背中の奥で滑るような何かの気配を感じた。


 それは自分の意志では制御できない、異質な動きだった。



 ふと、幼い頃の記憶が蘇る。

 手足が思うように動かず、身体が自分の期待に応えてくれなかったあのもどかしさ。

 しかし今の違和感は、単なる未熟さではなかった。胸の奥の微かな動きは、計画的に、滑るように身体を支配していく存在の気配だった。


 恐怖が胸を締め付ける。

 鏡に映る自分の姿はいつも通りの人間だ。


 だが指先の遅れ、呼吸のずれ、背中の奥で蠢く感覚は、決して錯覚ではない。自分の身体は、もはや自分だけのものではないという直感が、理性を凍らせた。



 日常のあらゆる動作に異変は忍び寄る。

 箸を握る手の重み、ドアノブに触れる指先の感覚、歩くときの微妙なタイミングのずれ。

 どれもわずかだが確実に、恒一の身体を支配する存在の痕跡を示していた。

 息を吸い、吐くたびに、その存在は微かに胸の奥で揺れ、滑るように動き回る。恐怖よりも深い不安が恒一を覆う。

 鏡の中の自分は健康で理想的な人間だ。しかしその内部には、妖怪のように滑る、正体不明の存在が蠢いている。



――それを避ける術は、もうどこにもないのだ。

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