サイゼリヤで、ただ食べるだけの一日
五平
第1話:ミラノ風ドリア
店員が皿を置く。その刹那、安っぽいメラミン樹脂のテーブルが微かに軋み、その振動が彼女の膝、そしてジャージの薄い生地を通して大腿部の筋肉へと伝播した。運ばれてきたのは、もはや単なる「料理」ではない。それは沸騰し、蠢き、自身の重熱に耐えかねて震える、ひとつの熱力学的な現象そのものだった。
彼女は、何も言わない。自己紹介も、空腹の理由も、そこに至るまでの経緯も、この物語には存在しない。ただ、膝の上で固く握りしめられていた両拳が、ゆっくりと、しかし確かな殺意を持って解かれた。
ジャージの右袖を、左手で掴む。肘の裏まで捲り上げる。ポリエステル特有の、摩擦係数の高いカサカサという乾いた音が、店内の湿った喧騒を鋭く切り裂いた。剥き出しになった前腕は、冬の冷気を含んだ店内の空気に触れ、微かに産毛を逆立たせる。だが、彼女の視線が射抜いているのは、皿の縁でふつふつと泡を立て、断末魔のような音を立てるホワイトソースの海だった。
右手がつかんだステンレスのスプーンは、無数の客に使い古され、表面には無数の微細な傷が走っている。彼女はその冷たい金属の感触を掌で確かめるように一度握り直し、およそ四十五度の角度を保ったまま、ドリアの「心臓部」へと狙いを定めた。
そこは、焼き固められたチーズの膜が最も厚く、かつ内部の蒸気圧によって僅かにドーム状に盛り上がった特異点だ。
「サクッ」
音がした。それは、厳冬の湖に張った薄氷を踏み抜くような、あるいは乾燥した古文書の頁を引き剥がすような、あまりにも繊細で、それでいて不可逆的な破壊の音だった。
膜が破れた瞬間、封印されていた熱が白濁した霧となって噴出する。ホワイトソースに含まれる乳脂肪分が熱分解される際の甘やかな香りと、ミートソースの牛挽肉から滲み出した重厚な脂の焦げた匂い。そして、基底部で待ち構えるターメリックライスの、土の香りに似たサフランの刺激が、熱風となって彼女の顔面を襲った。
ジャージの襟元に、結露した熱の雫が数滴、染みを作る。だが、彼女はその熱を避けるどころか、むしろ歓迎するように身を乗り出した。
スプーンの先が、抵抗を失ったソースの深淵へと沈み込む。
底に触れる。
そのまま、地質調査のボーリングサンプルのように、チーズ、ミートソース、ホワイトソース、そしてライスの四層を、垂直に掬い上げた。
持ち上げられた質量は、重力に従ってスプーンの縁から粘り強く垂れ下がろうとする。飴色に溶けたチーズが細い糸を引き、テーブルとの間に光の線を引いた。彼女は、その糸が断ち切られるよりも早く、開かれた唇の間へとその「熱塊」を放り込んだ。
瞬間、口腔内は戦場と化した。
熱い、という概念を超えた物理的な衝撃。
まず上顎の粘膜が、百度に近いホワイトソースの洗礼を受ける。激痛に近い熱量が細胞を突き刺すが、彼女の咀嚼は止まらない。舌が反射的にドリアを奥へと送り込み、味蕾のひとつひとつが、押し寄せる情報の濁流を処理し始める。
ホワイトソースの滑らかな、粘膜にまとわりつくようなコク。それが舌を覆い尽くしたかと思えば、直後にミートソースの凝縮された塩気と、トマトの微かな酸味が、その防壁を力業で食い破る。
奥歯が噛み締められる。
ターメリックライスの、一粒一粒が独立した弾力。それは柔らかすぎるソースの海において、確かな「物質」としての抵抗を彼女の脳に伝える。咀嚼するたびに、米の芯に残された微かな硬さが、溢れ出したソースの水分を吸い上げ、味のグラデーションを均一に塗りつぶしていく。
さらに、焼き固められたチーズの焦げ。
それは炭化寸前の苦味を伴い、単調な「美味」の中に、野生的なアクセントを叩き込んだ。カリッ、とした乾いた音が顎の骨を通じて脳髄に響く。その振動が、彼女の食欲という名の獣に、さらに火をつける。
飲み込む。
喉仏が、大きく、重々しく上下した。
ジャージの背中の生地が、嚥下に伴う筋肉の連鎖反応を拾い、グ、と一度だけ鋭く波打つ。食道を通る熱い塊の感覚が消えないうちに、彼女の右手は既に二口目を成形していた。
二口目は、皿の「際」を狙う。
皿の縁、陶器の熱で限界まで焼き付いたチーズの残滓。そこには水分が失われ、旨味だけが暴力的に濃縮されている。彼女はスプーンの側面を皿のカーブに密着させ、体重を乗せてそれをこそげ落とす。
キィィ、という、耳の奥を掻きむしるような鋭利な金属音が店内に響き渡る。周囲の客が眉をひそめようが、彼女には関係ない。剥がし取られたその「結晶」を、残りのソースと混ぜ合わせ、より深淵に近い味を作り出す。
三口目、四口目。
速度はもはや、食事というよりは解体作業に近い。
彼女の額には薄っすらと汗が滲み、捲り上げたジャージの袖から放散される体温が、周囲の空気を僅かに歪ませている。ジャージのフロントジッパーが、激しくなる呼吸に合わせて小刻みに震え、照明を不規則に反射した。
ドリアの海は、見る間に干上がっていく。
彼女は皿を僅かに左に傾け、残された全てのソースとライスを一箇所に集約させる。それは、この一皿が辿り着いた、最も濃厚で、最も冷酷な最後の一撃だ。スプーンが皿の底を叩く乾いた音が、終わりを告げるカウントダウンのように店内に響く。
最後の一口を、彼女は最も長く、深く噛み締めた。
全ての温度、全ての食感、全てのプロセスが、この瞬間、彼女の血肉へと変わるための準備を終える。
ゴクリ。
重厚な嚥下音。
空になった皿の上に、残されたのは薄いオレンジ色の油膜と、戦いの跡を示す数本の傷跡だけだった。
彼女は、余韻を噛み締めるための「停止」を自らに許さない。ジャージの袖で、口元に付着した微かなソースを無造作に拭う。その動作には、女性としての羞恥も、食事を楽しむ余裕も、一切含まれていない。
視線は既に、空になった皿を越え、テーブルの端に鎮座する呼び出しベルへと向けられている。
彼女の指が、迷いなくそのプラスチックのボタンを押し込んだ。
ピンポーン。
無機質な電子音が、彼女の「第一話」の終止符を打つ。
だが、その音は同時に、次なる獲物への号砲でもあった。
次は、辛味チキン。
彼女の胃袋は、まだ一ミリの充足も示していない。
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