04:母の最期と霊の祝福



コンコン、と静かなノックの音が響く。


「お母さま、入るね」


本を胸に抱えた十歳のフィオナがエディットの部屋を訪れた。


「あら……」


ベッドで横になっていたエディットは、フィオナの姿を見て困ったような笑みを浮かべる。


「今日は護身術のお稽古じゃなかったの?」

「上手にできたから早く終わってくれたの」


フィオナはまっすぐベッドへ向かい、そばにあった椅子に腰をかける。


「そう……」


エディットは上体を起こそうとしたが、ベッドについた手はひどく痩せ、身体を支えることすら難しそうだ。


「寝たままでいいよ! 今日はローズ姫のお話読んであげるね!」


フィオナが慌てて止める。


「ふふ、ありがッ、ゴホッ」

「大丈夫!?」


エディットが咳き込むと、フィオナは真っ青な顔で立ち上がった。

膝から落ちた本がバサッと音を立てる。

しかしフィオナは拾おうともせず、エディットの背中を優しくさすった。


「お医者さん呼ぶ?」

「大丈夫よ……ありがとう」

「でも、診てもらった方が……」

「いいの」


医者を呼ぼうとしたフィオナの腕をエディットが掴む。

十歳のフィオナでも簡単に振り払えるほど、弱々しい力だった。


「フィオナ……」


エディットはふう、と深く息を吐き、娘の名を噛み締めるように呼んだ。


「私ね、お父様と結婚する前……好きな人がいたの」


そして血色の悪い唇で、静かに話し始める。


「お父さまじゃなくて?」

「ええ。お父様には内緒よ」

「うん」

「隣の国の騎士で……珍しい黒髪がとても綺麗で、海みたいに深くて、吸い込まれそうな青い瞳が――大好きだった……」


エディットは窓に顔を向ける。

雲ひとつない青空を見つめるその瞳は、まるで淡い初恋に揺れる少女のように揺れていた。

胸元のオパールのネックレスがピンク色に輝く。


(黒い髪に、青い瞳……)


フィオナは息を呑む。

今まさにフィオナの隣に立ち、泣きそうな表情でエディットを見つめている男性の霊。

幼い頃からずっと視えていた彼も、黒髪に青い瞳だった。


「……そこにいるの?」

「!」


エディットが尋ねると、フィオナはびくりと肩を揺らす。

口を小さく開けたものの、そこから言葉は出てこない。

 

「教えて……お願い」


優しい声に押され、フィオナは小さく頷いた。


「……いるよ。ずっと前から、お母さまのそばに」

「そう……」


その答えを聞いてエディットは嬉しそうに目を細めた。


「ラウル……ありがとう」


目尻から涙がこぼれ落ち、エディットは目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返した。

その姿に、フィオナの胸の中に不安が広がっていく。


「お母さま……?」


震える声でフィオナが呼ぶ。

エディットは唇をキュッと締めてから、今できる限りの笑顔をつくってみせた。


「わ、私、海見たことない……だから、お母さまの病気が治ったら……ッ、一緒に行こうよ」

「フィオナ……っ」


エディットの細い指がフィオナの頬をなぞり、乾燥した唇が動く。


「――――……」


しかし小さな息が漏れるだけで、言葉にはならなかった。


「なあに……? もう一回言って、お母さま……」


問いかけても返事はない。

頬を滑り落ちていく細い腕を、フィオナが慌てて受け止める。


「お母さま……お願い……お願い……ッ」


力ないエディットの手を、祈るように両手でぎゅっと握った。

大粒の涙がこぼれ落ち、シーツに滲んでいく。

 

「ねえ……」


フィオナは涙が溜まった瞳で右隣を見上げる。


「お母さまの病気を治してよ……」


声をかけた相手は霊だった。

相変わらず返事はない。

ただ、深い青色の瞳はしっかりとフィオナを見据えていた。


「お母さまを元気にしてよ……!」


縋るフィオナに、彼は静かに首を横に振った。


「っ……」


フィオナは唇を強く噛み締める。

娘の悲痛な声がどれだけ響いても、エディットはぴくりとも動かない。


「うわあああん」


母の死を、受け入れざるを得ない光景だった。


『……』


泣きじゃくるフィオナの頭を霊が優しく撫でる。

実際に触れるわけではないのに、それでも霊は手を止めなかった。

 

『フィオナ』

「……!」


初めて聞いた霊の声に、フィオナはハッと顔を上げた。

霊の優しい表情がエディットと重なり、またボロボロと涙が溢れていく。


『"愛してる"』

「え……」


確かに男性の声なのに、何故か母のような暖かさを感じた。


『"祝福"を……受け取ってほしい』

「!?」


霊が控えめに微笑んだ瞬間、眩い光がフィオナを包み込む。


(あったかい……)


フィオナは心地よさに目を細め、脱力する。

やがて光はフィオナの身体に染み込んでいくように消えていく。


光が静かに収まると、フィオナはその場に倒れ込み、ラウルと呼ばれた霊の姿はサラサラと砂のように崩れていった。





ガタンッ


「!」


馬車が大きく揺れた衝撃で、フィオナは目を覚ました。


「ちょっと見てきますね」


ハドリーが慌てて馬車を降りていく。

その背中をぼんやりと目で追いながら、フィオナは胸に残るざわつきを感じた。


「怖い夢でも見た?」

「……」

「苦しそうな顔してたから」


隣に座るレナルドの緑色の瞳が心配そうにフィオナの顔を覗き込む。

確かにフィオナの額には汗が滲んでいた。


「ううん、大丈夫」


未だ落ち着かない鼓動を自覚しながらも、フィオナは笑顔を繕った。


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