2026年1月19日 08:43 編集済
031〝ロミオ〟と〝ジュリエット〟の狭間でへの応援コメント
パロディギャグか?ならもっとぶっ飛んでても良かったんじゃ?「キャピュレット・ファミリー」とか「紋汰牛総会(恰好良くはならんなw)」とか思ったけれども、 読み進める程に、心理描写は割と丁寧だし感じられるテーマは真摯。あ、これギャグじゃないな、と気付きましたw 追放され全てを失って自由を得たロミオ。抗争の果てに立場が上がり自由を失ったジュリエット。最後に向き合い何を思った事か。 多分もっといい終わり方にはできた筈。でも元の話が悲劇だから、ハッピーエンドにはならなかったのだろうなと思います。そこがむしろ好きです。
作者からの返信
あけましてー。矢久作品には、シリアスものの作品でも、登場人物がわりと浮世離れしてるヤツが出てくることが多かったりします。これは、それぞれの登場人物の性格が(物語の性質とは)別個に構築されてしまうからで、ギャグるつもりがなくても、素で訳の分からんことを(登場人物が)言っていることが、ままあります。他人事のように言ったらおかしいかもしれませんが、キャラクターたちが勝手に持っている個性だと思っています。今回のジュリエットも、ああ見えて始めからド真面目だったりします。なんとなく、途中テレフォンショッピングみたいになっちゃってるところとか……アレは実は、彼女の潜在意識が、自分のことを商品だと認めているカナシサが表れているんです。自分が置かれている立場が、キャピュレット家にとっては商品のようなものでしかない……それが(心の中で)分かっている。だから、自分をアピールする時に商品化してしまうし、王族との取引に扱われた時もそこに悲劇を感じていなかった。それが当然だと思っていた……という心理の伏線に繋がっています。その、がんじがらめの宿命に、本人も気づいていなかった。だからロミオへの想いを白昼夢と判断したし、現実とは別のものとし、バルコニーという舞台で自分に酔うことができていたんですよね。あれはロミオを愛する以上に、ロミオを愛する自分に酔っていたと。(愛とはなんだか分かってなかった……とも言えます)余談ですが、原作でも、実は本当にすべてをかなぐり捨てても愛に興じようとしたのは彼の死を見てからだったんじゃないかと思っています。でなければ、ロミオが追放された時点で追いかけてもよかった。城壁の外の修道院に単独で行けるジュリエットはそれが可能だったはず。それをしなかったのは、やはり、家が大事だったか自分が大事だったか。……要するに宿命に縛られ、『本当に愛している気持ち』に気づけなかったのだと思っています。この〝宿命〟を、ロミオも持っていたのですが、すべてを失って気づかされたんです。そのがんじがらめに。その鎖を解くことの残酷さを知っていながら、気づいてしまった『本当に愛している気持ち』を、最後に伝えずにはいられなかった。鎖を解きに行っておいて、「お前は鎖の中で生きろ」という矛盾を言わざるを得なかった極限状態と、彼が解放してしまったジュリエットの心……。そうすると、これは悲劇にならざるを得ない話だった……ってことを、原作の『ロミオとジュリエット』とは別の視点で描きました。〝ロミオ〟(解放された苦しみ)と〝ジュリエット〟(束縛された苦しみ)の挟間で、彼らが互いの夢の続きを見るためには、ああするしかなかったのかなと。原作がああだから……というよりも、これらの心理を深く追ったら、ハッピーにはならなかっただろうなと……というところからの、あの結末でした。長くなりましたが……あとがきと解説です(笑)。
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031〝ロミオ〟と〝ジュリエット〟の狭間でへの応援コメント
パロディギャグか?ならもっとぶっ飛んでても良かったんじゃ?「キャピュレット・ファミリー」とか「紋汰牛総会(恰好良くはならんなw)」とか思ったけれども、
読み進める程に、心理描写は割と丁寧だし感じられるテーマは真摯。あ、これギャグじゃないな、と気付きましたw
追放され全てを失って自由を得たロミオ。抗争の果てに立場が上がり自由を失ったジュリエット。最後に向き合い何を思った事か。
多分もっといい終わり方にはできた筈。でも元の話が悲劇だから、ハッピーエンドにはならなかったのだろうなと思います。そこがむしろ好きです。
作者からの返信
あけましてー。
矢久作品には、シリアスものの作品でも、登場人物がわりと浮世離れしてるヤツが出てくることが多かったりします。
これは、それぞれの登場人物の性格が(物語の性質とは)別個に構築されてしまうからで、ギャグるつもりがなくても、素で訳の分からんことを(登場人物が)言っていることが、ままあります。
他人事のように言ったらおかしいかもしれませんが、キャラクターたちが勝手に持っている個性だと思っています。
今回のジュリエットも、ああ見えて始めからド真面目だったりします。
なんとなく、途中テレフォンショッピングみたいになっちゃってるところとか……アレは実は、彼女の潜在意識が、自分のことを商品だと認めているカナシサが表れているんです。
自分が置かれている立場が、キャピュレット家にとっては商品のようなものでしかない……それが(心の中で)分かっている。だから、自分をアピールする時に商品化してしまうし、王族との取引に扱われた時もそこに悲劇を感じていなかった。それが当然だと思っていた……という心理の伏線に繋がっています。
その、がんじがらめの宿命に、本人も気づいていなかった。だからロミオへの想いを白昼夢と判断したし、現実とは別のものとし、バルコニーという舞台で自分に酔うことができていたんですよね。あれはロミオを愛する以上に、ロミオを愛する自分に酔っていたと。(愛とはなんだか分かってなかった……とも言えます)
余談ですが、原作でも、実は本当にすべてをかなぐり捨てても愛に興じようとしたのは彼の死を見てからだったんじゃないかと思っています。
でなければ、ロミオが追放された時点で追いかけてもよかった。城壁の外の修道院に単独で行けるジュリエットはそれが可能だったはず。
それをしなかったのは、やはり、家が大事だったか自分が大事だったか。
……要するに宿命に縛られ、『本当に愛している気持ち』に気づけなかったのだと思っています。
この〝宿命〟を、ロミオも持っていたのですが、すべてを失って気づかされたんです。そのがんじがらめに。その鎖を解くことの残酷さを知っていながら、気づいてしまった『本当に愛している気持ち』を、最後に伝えずにはいられなかった。
鎖を解きに行っておいて、「お前は鎖の中で生きろ」という矛盾を言わざるを得なかった極限状態と、彼が解放してしまったジュリエットの心……。
そうすると、これは悲劇にならざるを得ない話だった……ってことを、原作の『ロミオとジュリエット』とは別の視点で描きました。
〝ロミオ〟(解放された苦しみ)と〝ジュリエット〟(束縛された苦しみ)の挟間で、彼らが互いの夢の続きを見るためには、ああするしかなかったのかなと。
原作がああだから……というよりも、これらの心理を深く追ったら、ハッピーにはならなかっただろうなと……というところからの、あの結末でした。
長くなりましたが……あとがきと解説です(笑)。