第2話 覚醒の刻

翌朝、僕を待っていたのは、予想通りの地獄だった。


「――残念だが、相馬。今回の件で、指定校推薦の話は白紙に戻させてもらう」


 進路指導室。  担任の男は、僕の目を見ずに淡々と告げた。机の上には、万引きされたとされる化粧品と週刊誌。そして、蛇島の取り巻きが書いたであろう「目撃証言」の紙切れ。


「先生、僕はやっていません。指紋を調べてください。防犯カメラだってあるはずです」

「店側が被害届を出さない代わりに、示談で済ませることになったんだ。これ以上、騒ぎを大きくするな」


 先生は面倒くさそうに吐き捨てた。

 ああ、そうか。指紋鑑定も、防犯カメラの確認も、警察が動かなければ行われない。学校側にとって重要なのは「真実」ではなく、「不祥事を公にせず処理すること」と「PTA会長(蛇島の親)の機嫌を損ねないこと」だけだ。


 僕の無実を証明する手間よりも、僕一人を切り捨てる方が、コストが安いのだ。


「それから、お母さんにも連絡を入れておいたから」


 心臓が凍りついた。


「え……」

「今、電話が繋がっている。代わるか?」


 担任が受話器を差し出す。  耳に当てる前から、受話器の向こうから、聞き慣れた、しかし聞きたくなかった声が漏れ聞こえてきた。


『……申し訳ありません、申し訳ありません……っ! あの子が、湊がそんなことを……私の育て方が悪かったんです……本当に、申し訳ありません……』


 母が、泣きながら謝っていた。  必死に頭を下げている姿が、受話器越しにありありと浮かぶ。  朝から晩まで働き詰めにして、ボロボロの手で僕を育ててくれた母。  「湊は自慢の息子だ」と、いつも笑ってくれていた母。


 僕が勉強していたのは、母にこんな声を上げさせるためじゃない。  楽をさせるためだったのに。  僕のせいで、母のプライドはずたずたに引き裂かれた。


「……っ」


 僕は無言で受話器を置き、逃げるように進路指導室を出た。  背後で担任が「おい、まだ話は!」と叫んでいたが、もう何も聞こえなかった。


          ◇


 放課後。  僕は屋上に続く階段の踊り場で、膝を抱えていた。教室には居場所がなく、家に帰る勇気もなかった。


 カツ、カツ、と足音が近づいてくる。


「よう、犯罪者くん」


 見上げると、そこには蛇島と剛田が立っていた。

 蛇島は心底愉快そうに、口元を歪めている。


「聞いたぜ? 母ちゃん、電話で泣き叫んでたんだって? 『貧乏な上に犯罪者の息子を持って不幸です』ってか?」

「ギャハハ! 傑作だな! 親孝行できてよかったじゃねえか、相馬ぁ!」


 剛田が僕の肩を蹴り飛ばす。

 無抵抗に転がる僕を見て、二人は腹を抱えて笑った。


 怒りが湧かなかった。

 悲しみも、悔しさも、もうキャパシティを超えていた。  ただ、頭の中で、何かが急速に冷えていくのを感じた。


 人間は、ここまで醜くなれるのか。  同じ「ヒト」という生物種でありながら、なぜここまで構造的欠陥(エラー)を抱えた個体が生まれるのか。


(……死のう)


 ふと、そう思った。  この汚泥のような現実からログアウトするには、それしか方法がない。  僕はよろめきながら立ち上がり、二人を無視して屋上のドアに手をかけた。


「おい、無視すんなよ!」


 剛田が僕の腕を掴む。  その瞬間だった。


 キィィィィィィィン――!!


 鼓膜を突き破るような耳鳴りが、脳髄を直撃した。  頭が割れるように痛い。視界が明滅する。極度のストレスと絶望が、脳内の神経伝達物質(ニューロトランスミッター)を異常分泌させ、臨界点を突破したのだ。


「あ、が……っ!?」


 僕は頭を抱えてうずくまる。

 世界が、回る。

 色が、溶ける。


 コンクリートの床が、鉄の手すりが、そして目の前に立つ剛田と蛇島が――脱色され、線と数値に分解されていく。


『――対象の生体構造をスキャン。承認。権限(アドミニストレータ)を解放します』


 どこからか、無機質なが聞こえた気がした。


 目を開ける。

 頭痛は嘘のように消えていた。

 そして、世界は変貌していた。


「おい、どうしたんだよ急に。気味悪ぃな」


 剛田が不審そうに僕を覗き込む。

 だが、僕の目に映っているのは「剛田」という人間ではなかった。


 筋肉の束。血管の走行ルート。骨の密度。神経の配線。  皮膚の下にあるすべてが、まるで精巧な3D図面のように透けて見えている。  どこが弱点で、どこを押せばどう反応するか。そのすべてが「情報」として脳に流れ込んでくる。


(これは……なんだ?)


 僕は震える手で、自分の腹部に触れた。  昨日、剛田に殴られてできた青痣(あざ)。内出血を起こし、組織が破壊された患部。

 そこに意識を集中する。


 『修復(リストア)』


 念じた瞬間、掌の下で細胞が高速で分裂・再生する感覚があった。  手を離す。  そこには、傷一つない綺麗な皮膚があった。痛みも完全に消えている。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。理解した。

 僕は、生物という「物質」を、分子レベルで理解し、書き換える力を手に入れたのだ。


 つまり、今の僕にとって、人間はただの「粘土細工」に等しい。


「なに笑ってんだよ、テメェ!」


 気味悪がった剛田が、再び拳を振り上げる。  その動きは、今の僕にはスローモーションのように見えた。上腕二頭筋が収縮し、三角筋が連動するプロセスが手に取るようにわかる。


 僕は避けなかった。  迫りくる剛田の腕に向かって、そっと掌を差し出す。


「触るなよ、汚らわしい」


 僕の指先が、剛田の前腕に触れた。

 殺意を込めて、その「構造」に干渉する。


 バキョッ。


 硬質な音が響いた。

 骨を折った音ではない。

 剛田の橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃっこつ)を、瞬時に「液状化」させた音だ。


「え?」


 剛田の腕が、ありえない方向にぐにゃりと曲がった。  いや、曲がったのではない。骨という支えを失い、ただの肉袋となって垂れ下がったのだ。


「あ、あ……あぁぁぁ!?」


 遅れてやってきた激痛と、自分の腕が軟体動物のように変形した恐怖に、剛田が絶叫する。

 その悲鳴は、僕にとって最高のファンファーレだった。


「うるさいな。実験の邪魔だ」


 僕は白衣を着るように、冷徹な仮面を心に被せた。

 さあ、手術(復讐)の時間だ。

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