第5話

ある日の夕刻。

日が傾き、障子越しの光が橙色に変わるころ、和歌は筆を置いた。算術の式は最後まで解けている。誤りもない。むしろ、その整然とした数字の並びが、心地よくさえあった。


――楽しい。


その感覚に気づいた瞬間、和歌は小さく息を吸った。

楽しい、という言葉は、この家では慎重に扱わなければならない感情だった。だが、もう抑え込む理由が見つからなかった。



*****



畳に手をつき、背筋を正す。

部屋の奥にいる父の存在は、気配だけで分かる。紙の擦れる音、墨の匂い、沈黙の重さ。和歌は一瞬だけ迷い、それでも口を開いた。


「……お願いがございます」


声は、思っていたより落ち着いていた。


「勉強が、楽しくなりました。もっと学びたいです。

ですので――学校へ行かせてください」


言い切った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

拒絶される可能性は高い。それでも、言葉にしなければ、何も変わらない。


少しの沈黙が落ちる。

父はすぐには返事をしなかった。墨を置き、和歌の方を見るでもなく、ただ空気を測るように間を取る。


「……そろそろ、その言葉が出る頃だとは思っていた」


低い声だった。叱責でも、賞賛でもない。


「しかし」


わずかに間を置いて、続く。


「予定通りなのが、気に食わん。

さて、どうしたものかな?」



和歌は、目を伏せたまま、静かに言った。


「……予定調和は、お嫌いですか」


声に震えはない。

自分の考えを述べるときの、あの畳の部屋で覚えた慎重さが、ここでも生きている。


「算術は、予定調和の極まりです」と和歌。


答えは短いが、逃げ道はない。

数字は嘘をつかない。導かれる結果は、最初から決まっている。それでも算術は、価値を持つ。


再び、沈黙。

だが今度の沈黙は、重苦しいものではなかった。


父は、ほんのわずかに口元を緩めた。

それは笑みと呼ぶにはあまりにも淡く、和歌でなければ気づかなかったかもしれない。


「それも、そうだな」


墨の蓋を閉める音が、やけに大きく響く。


「許可する。学校へは、私から手紙を出そう」


一拍置いて、はっきりと告げる。


「下がれ」


和歌は、その言葉を聞いて初めて、胸の奥に溜めていた息を静かに吐いた。

顔を上げることはせず、深く一礼する。


「……はい」


立ち上がるとき、足がわずかに痺れているのを感じた。

それでも歩みは乱さない。廊下に出て、障子を閉めた瞬間、背中に張りついていた緊張が、少しだけ剥がれ落ちた。


――学校。


その言葉が、胸の中でゆっくりと形を持ち始める。

未知の場所。未知の人間。だが同時に、答えを試せる……。

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