第4話 雨の音、血の匂い、届かない約束
敵の第二陣一個大隊は、もはや獲物を探す獣ではなかった。
それは、一機の旧式機に精鋭『ヴァーゲスト』を壊滅させられた屈辱を雪がんとする、鋼鉄の津波だった。
通常、人型機シュテルツァーの運用は2機1組の「小隊」が基本とされる。
四個小隊で一個中隊八機。
(小隊の数等は柔軟に変わるのが通常。特に戦時)
すなわち三十機一個大隊は、一個師団の矛先として一国の防衛線を単独で食い破るのに十分な、まさに「蹂躙」のための編制だ。
その暴力的なライフル弾の嵐の中を、カイの『旭風(あさかぜ)』は狂ったように舞っていた。
「ハァ、……ハァ、ハァ……ッ!」
カイの視界は、自分の額から流れる血と、コクピット内に充満した過熱油圧の蒸気で白く霞んでいた。
計器類は過負荷で火花を散らし、過呼吸気味の肺が焼けるように熱い。
電波の死んだ世界で、カイは唯一残された「音」と「足の裏のペダルに伝わる微かな地響き」だけで、迫りくる敵の位置を特定し続けていた。
だが、天才の技をもってしても、物理的な限界は非情だった。
続けて四機を屠った刹那、限界を迎える。『……警告。月田三二型エンジン、熱暴走。相転移効率が低下。残余燃料、三パーセント。……自動消火装置、作動不能』
「まだだ……まだ、ジョセフたちが逃げ切るまでは……止まってたまるか、動け、動けよッ!!」
カイは無理やり、焼き付く寸前の重いアナログレバーを引き絞るがパイルバンカーは作動しない。
右腕部発射筒薬室接続部で鈍い音を発して火花を散らすに留まった。
三十機超を屠ったその報いのように、機体の関節部からは青白い電弧が散り、もはや右腕は自重を支えることすらできず、油圧の抜けた重りとなって力なく垂れ下がった。
帝国軍は、もはや射撃を止めていた。彼らは、この「悪魔のような旧式シュテルツァー」が完全に沈黙する瞬間を、恐怖と敬意の入り混じった、暴力的なまでの静寂で見守っていた。
「……ここまで、か」
燃料計の針が「0」を指し、機体の心臓部である月田三二型が、深い溜息をつくように最後の一回転を終えて停止した。
照明が落ち、暗闇に包まれたコクピットの中で、カイは力なく操縦桿から手を離した。
指先は、通常の数倍もの操作を完遂し続けた過負荷で、自分の意思を離れて激しく震え、爪の間からは血が滲み、操縦レバーを赤く汚していた。
「ミナ……生きてくれよ。頼む……」
カイは震える手で、手動ハッチの重いロックを解除した。
カチリ、という金属音が静寂に響く。
冷たい粉塵混じりの風が、熱の籠もったコクピットに流れ込む。
ハッチから這い出したカイの目に映ったのは、砂浜を埋め尽くさんばかりの帝国の重装甲部隊と、琥珀色の光を失い、赤黒く燃え落ちる故郷ケダの無残な残骸だった。
一九八一年、冬。
この日、熱帯の楽園と呼ばれたこの街は地図から消えた。
帝国による一方的な占領と、歴史に刻まれることのない「一人の天才」の敗北。
カイは機体から降り、未だ戦闘の熱を宿す黒い砂の上に降り立った。
目前には、着剣した小銃を向ける帝国兵たちの冷徹な眼差し。
そして背後には、ジョセフがミナを連れて消えていった深い闇が広がっていた。
占領から数日。カイは、帝国兵が向ける銃口の間を縫うようにして、第48収容所へと足を踏み入れた。
そこは熱帯のスコールが作り出した泥濘が足首まで没する、絶望の檻だった。
焼けたマンガニスの残り香と、排泄物、そして死臭が混じり合う重苦しい空気が、湿気と共に肌に纏わりつく。
彼が歩く道だけは、不気味なほどに道が開けた。
壁際でうずくまる周囲の捕虜たちは「あれが、ヴァーゲストを壊滅させた死神か」「あの鉄屑でよくやったな」と畏怖と羨望の混じった視線を投げかける。
だが、今のカイにその視線を感じる余裕はなかった。
「……ジョセフ! 返事をしてくれ、ジョセフ!」 カイの掠れた叫びに、粗末なバラックの影から、煤だらけで変わり果てた男が顔を上げた。 「カ……カイ! 生きていたのか、本当にお前なのか!」
ジョセフは駆け寄り、カイの泥だらけの腕を強く掴んだ。
その瞳には涙が溜まり、指先は小刻みに震えている。
彼は一瞬、躊躇するように背後の薄暗い室内を振り返り、ひどく掠れた声で言った。
「……ミナなら、中にいる。ずっと、お前が来るのを信じて待っていたんだ。だが、カイ……心の準備をしておけ。ミナの傷は深いんだ……心も……身体もな……」
カイは、心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴るのを感じながら、隙間風の吹く狭いバラックの中へ飛び込んだ。
湿った藁と、錆びた鉄、あるいは血の混じったような鼻を突く消毒液の匂い。
部屋の隅、藁を敷いた粗末な寝床の上に、一人の少女が横たわっていた。
「ミナ……!」
その声に、少女がゆっくりと、ひどく重そうに顔を上げた。
頬は削げ、肌は不自然に白く透けていたが、その瞳にはカイがよく知る「温かな光」が、消え入るような弱さで灯っていた。
彼女は、不格好で泥で汚れた不潔な布が幾重にも巻かれた、自分の右足――膝から下が失われ、あまりに短くなってしまったその場所を一瞬だけ悲しげに見つめ、
それからカイに向かって、震える唇でいつものように笑いかけた。
「……おかえり、カイ。……無事だって、信じてたよ。凄かったんだから、あの日。地響きで、カイが頑張ってるの分かったよ」
「ミナ、すまない……。俺はお前を…守りたかった…のに!」
カイは彼女の前に膝をつき、その冷たくなった小さな手を握りしめた。
ミナは、自分の痛みよりも、カイの目から溢れる涙を拭おうと、不自由な体で懸命に手を伸ばした。
その指先には、まだナシレマを分けてくれた時の、あの優しい温もりが僅かに残っていた。
「泣かないで、カイ。……私、これくらい平気。だって、生きてるもん。ジョセフが頑張って助けてくれたし、カイがあの日、街を……みんなを守ってくれたから。カイは、私のヒーローだよ」
彼女の言葉は、鋭利な刃物となってカイの胸を深く抉った。
足を失い、未来を奪われた絶望の淵にありながら、彼女はカイを責めるどころか、その心を気遣っている。
その健気さが、カイの中に残っていた「神の操縦」という冷徹な才能を、再び熱く、どす黒い「復讐心」へと変質させた。
「……約束する、ミナ。お前の恨みも、奪われた日常も、全部俺が取り戻す。この地獄から、必ず連れ出してみせる。俺の命に変えてもだ」
「うん……。カイと一緒に、またあのナシレマ、食べたいな。海老、またあげるからね……」
バラックの窓から差し込む冬の鈍い光が、二人の重なる手を照らし出す。
その光景を、高台の視察所から双眼鏡越しに眺める影があった。
アシュラフ技術大佐。
彼は感情を排した目で、レンズ越しにその様子を確認すると、傍らに控える技術士官に淡々と告げた。
「テストパイロット候補第18号。カイ イサギ士官候補生……あの日、あの『旭風』で成した機動は、もはや執念を超えた機械的感応だ。彼なら、あれを御せるかもしれん」
大佐の視線の先、特別強化コンテナの中には、漆黒の新型先行試作機シュテルツァー『アスラ』が鎮座していた。
帝国技術部が「最強」を標榜して生み出したその機体は、水上走行すら可能にする圧倒的な推力と出力を誇る野心作だった。
しかし、あまりにも鋭敏すぎる反応速度と、複雑怪奇に絡み合う操縦バランスの危うさゆえ、帝国のエース級パイロットですら一分と真っ直ぐに立たせておくことができず、開発陣から「誰も操縦できない失敗作」とまで揶揄された呪われた機体だ。
「……イサギ・カイ。彼をあの黒い鉄塊(アスラ)に座らせろ。連邦の残党が反攻を目論むだろう。我々には、制御不能な暴力ではなく、完璧に制御された『死神』が必要だ」
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