『精神耐性』カンストの俺、最凶の「眠り姫」を起こしてしまい、永遠の鳥籠へ。 ~君の愛が重すぎて、メンタルガードが息をしてません~
こん
本編
第1節 桎梏を断ち切り星の海へと漕ぎ出す夜
プツン、と。
頭の芯で、張り詰めていた何かが焼き切れる音がした。
深夜二時のオフィスビル。
空調の切れたフロアには、サーバーの駆動音と、俺がキーボードを叩く乾いた音だけが響いている。
無機質に明滅するモニターの光。デスクに山積みになった栄養ドリンクの空き瓶。そして、終わりの見えない修正指示書の束。
「……あ、これ、死んだな」
誰に告げるでもなく、乾いた唇からその言葉が漏れた。
俺、相川カナタ(27歳)の人生は、作成途中のプレゼン資料に指を置いたまま突っ伏すという、あまりにも救いのない過労死によって幕を閉じようとしていた。
三週間続いた徹夜。
上司からの理不尽な怒号。
取引先からの、人権を無視したようなスケジュールの強要。
俺の心はとっくの昔に摩耗しきっていた。
胃に穴が開くような痛みに耐え、動悸を薬で抑え、作り笑いを浮かべて頭を下げる日々。
新卒の頃に抱いていた希望や情熱は、黒いインクで塗り潰され、今では「今日をどう乗り切るか」しか考えられなくなっていた。
『お前は使えない』
『代わりはいくらでもいる』
『給料泥棒が、死ぬ気で働け』
脳裏にこびりついた呪いの言葉たちが、走馬灯のように駆け巡る。
反論したかった。逃げ出したかった。
けれど、真面目すぎた俺は、それすらも許されなかった。
(やっと……眠れる……)
薄れゆく意識の中で最後に感じたのは、死への恐怖でも、未練でもない。
圧倒的な安堵だった。
もう、明日が来なくていい。
もう、誰の顔色も窺わなくていい。
アラームの音に怯える必要もない。
視界が暗転する。
泥のように重かった体が、重力から解き放たれていく。
俺は深く、長い眠りへと落ちていった。
◇
「――きなさい。……起きなさい、哀れな魂よ」
どこまでも続く真っ白な空間で、俺は目を覚ました。
足元には雲のような床が広がり、目の前には神々しい黄金のオーラを纏った美女が宙に浮いている。
背中には翼、手には錫杖。いわゆる女神様というやつだろう。
「ここは転生の間です。現世で理不尽に苦しみ抜いた貴方に、せめてもの救済として第二の人生を用意してあげましょう」
女神様は慈愛に満ちた、聖母のような笑顔で言った。
よくある異世界転生だ。学生時代、現実逃避のために読み漁ったラノベと同じ展開。
普通なら、ここでテンションが上がって「剣と魔法の世界で勇者になってくれ」と言われる流れだが……。
「断る」
俺は食い気味に即答した。
女神様がキョトンとして、その美しい顔を引きつらせる。
「えっ……? い、今なんと?」
「断ると言ったんだ。生き返るのも、別の世界に行くのも御免だ。俺はただ眠りたいんだよ。放っておいてくれ」
俺は再び床に寝転がろうとした。
もう疲れたのだ。誰かのために働くのも、期待に応えるのも。
「ま、待ってください! 転生は決定事項なんです! それに、ただの転生ではありません。貴方には特別な力、ユニークスキルを授けます。伝説の聖剣を持ち、魔王を討伐する勇者として……」
「勇者? 魔王討伐?」
俺は鼻で笑った。
「冗談じゃない。世界を救う? 誰かの命を背負う? なんで死んでまで『責任』や『ノルマ』を負わされなきゃならないんだ。俺はもう、誰かの期待に応えるのは懲り懲りなんだよ」
俺の剣幕に押されたのか、女神様は「あ、いえ、別に勇者じゃなくてもいいんですけど……」とタジタジになって後ずさった。
「わ、わかりました。貴方の魂がそこまで疲弊しているとは……。では、魔王討伐の任務は免除します。貴方の望むスキルを授けて、好きなように生かしてあげましょう。何がいいですか? 世界を焼き尽くす最強の魔法? それとも一国を支配できるカリスマ?」
好きなように生きていい。
その言葉に、俺の心が少しだけ動いた。
もう一度やり直せるなら。誰にも縛られず、自分のためだけに生きられるなら。
俺は少し考えて、二つの願いを口にした。
「まず、絶対に壊れない体が欲しい。二度と過労なんかで死なない、どんな怪我も病気も一瞬で治る不死身に近い体だ。もう、体の不調に怯えるのは嫌だからな」
「ふむふむ、『無限再生』ですね。いいでしょう。肉体的な苦痛からの恒久的な解放……貴方に相応しい願いです。もう一つは?」
俺は前世の記憶を思い返した。
罵声。嘲笑。陰口。SNSの誹謗中傷。
肉体の疲れよりも、俺を本当に殺したのは『心の摩耗』だった。
他人の悪意に晒され、ビクビクして生きるのはもう嫌だ。誰かの言葉一つで傷つく弱い自分とは決別したい。
「鋼鉄のメンタルをくれ。誰に何を言われても動じない、どんな精神攻撃も効かない、最強の精神耐性が欲しい」
女神様は少し困った顔をして首を傾げた。
「精神耐性……ですか? 確かに便利ですが、強力すぎると『感情』が鈍くなる恐れもありますよ? 人の痛みがわからなくなるかもしれませんし、感動も薄れるかもしれません」
「構わない。他人の顔色を窺って胃に穴が開くよりマシだ。俺は、俺の心を守れる盾が欲しい」
俺の決意が固いことを悟ったのか、女神様は深く頷き、憐れむような目で俺を見た。
「……そうですか。貴方は本当にお疲れなのですね。わかりました」
女神様が錫杖を振ると、まばゆい光の粒子が俺の体に降り注ぐ。
「特例として、ユニークスキル『精神耐性EX(メンタルガード・エクストラ)』を授与します。これがあれば、魅了も洗脳も恐怖も、あらゆる精神干渉を無効化できるでしょう。……貴方の心を傷つけるものは、もうこの世に存在しません」
体が温かな光に包まれていく。
鉛のように重かった四肢が、羽のように軽くなっていく感覚。
頭の中にあった霧が晴れ、視界がクリアになっていく。
「行ってらっしゃい、カナタ。今度こそ、貴方が自分らしく、自由に生きられますように」
女神様の優しい声を背に、俺の意識は光の中へと溶けていった。
◇
目を開けると、そこは一面の緑豊かな大草原だった。
360度、地平線まで続く緑の絨毯。
空は突き抜けるように青く、白い雲がゆっくりと流れている。頬を撫でる風が、草の匂いと土の香りを運んでくる。
コンクリートと排気ガスにまみれた世界とは違う、生命の匂いだ。
「……あ、痛くねえ」
俺は立ち上がり、自分の腹をさすった。
前世で常に感じていた、焼けつくような胃痛がない。肩に食い込んでいた鉛のような重みもない。
体が嘘のように軽い。指先まで力が満ちているのがわかる。
近くにあった手頃な岩場に向かい、鋭く尖った石片を拾い上げた。
本当に願いは叶ったのか。それを確かめる必要がある。
俺は躊躇なく、石片で自分の指先を切りつけた。
プツリ。
皮膚が裂け、赤い血が滲む。
だが、痛みを感じる暇もなかった。
次の瞬間には傷口からシュウウと白い煙が立ち上り、瞬く間に皮膚が再生したのだ。
傷跡一つ残っていない。
「すげぇ……『無限再生』、マジだ」
痛みすらなかった。これなら、たとえドラゴンの炎に焼かれても、高所から落下しても死ぬことはないだろう。
次に、俺は心の中で、自分自身に酷い言葉を投げかけてみた。
かつて上司に言われた、最低最悪の言葉たちを反芻する。
『役立たず』『死ね』『お前なんかいない方がいい』『社会のゴミが』。
……何も感じない。
以前なら胸が締め付けられ、冷や汗が出て、動悸が止まらなくなっていたはずの言葉も、今の俺にはただの無意味な記号の羅列にしか聞こえない。
心が、見えない要塞のように強固に守られている感覚。
感情がなくなったわけではない。風を心地よいと思う心はある。だが、「悪意」だけが滑り落ちていく。
これが『精神耐性EX』か。
「はは……あははははッ!」
俺は草原の真ん中で、大の字になって笑い転げた。
腹の底から声を出して笑ったのは、何年ぶりだろうか。
「最高だ! 俺は自由だ! もう誰にも縛られない、俺だけの最強人生が始まるんだ!」
今の俺は無敵だ。
肉体も、精神も、誰にも傷つけられない。
上司もいない。ノルマもない。終電を気にする必要もない。
この世界なら、俺は王様にだってなれるし、何をしたって許される。
俺は立ち上がり、地平線の彼方にかすかに見える街の影へ向かって歩き出した。
その足取りは軽い。どこまでも行ける気がした。
桎梏を断ち切り、自由という名の海へ漕ぎ出した男の物語は、こうして幕を開けた。
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