第11話 キュウシンキ邂逅
水族館の喧騒は、嘘のように遠ざかっていた。
ガラス越しに揺れる水の青も、人の気配も、須野の意識からは切り離されている。
目の前に立つ少女は、笑っていた。
八重歯が覗くその口元は無邪気で、あまりにも楽しそうで、だからこそ不気味だった。
人の感情を玩具にする者特有の、軽さがある。
「……若水の能力。お前が与えたのか?」
須野の声は低く、乾いていた。
問いというより、確認に近い。
少女は首を傾げる。
次の瞬間、彼女の口が、意志とは無関係に動いた。
「そうだよ~。くふふ。私がやったの」
空気が、ひび割れる。
答えはあまりにも簡単で、だからこそ重かった。
須野は一瞬だけ目を細め、それから、いつものように口角を上げた。
「そうか。……それにしてもさ」
視線が、少女の顔をなぞる。
「お前、可愛くなったんじゃねえか?」
場違いな軽口。
だが、少女は楽しそうに笑った。
「そんな事言ってる暇、あるの~?」
その瞬間だった。
「須野!」
背後から、足音が駆け寄ってくる。
久遠と鏡宮だった。二人の顔には焦りと警戒が混じっている。
鏡宮が少女を見る。
久遠は須野を見た。
「……知り合い?」
須野は短く息を吐いた。
「まあな。最悪の部類だ」
少女は二人を見渡し、くるりと一回転する。
「あら~? お仲間さんかな~?」
その声は甘く、柔らかい。
だが、その内側には、底の見えない空虚があった。
須野は、はっきりと言い切る。
「こいつの正体は、政府の機関から脱走した人工上位存在――“キュウシンキ”だ」
久遠の喉が鳴る。
「人工……上位存在?」
「感情を食う。しかも、無秩序にだ」
須野の視線は外さない。
「周囲の人間の感情を吸収して生きる。恋も、恐怖も、意志も区別しない」
キュウシンキは楽しそうに両手を広げた。
「正確にはね~、今は“恋”が一番おいしいの」
その瞳が、わずかに光る。
「特に――コイテンシが食べてる恋愛感情。その“芯”を、ね」
空気が、凍りついた。
久遠達がどうにかこいつを対処しなければと考えた。
だが。
キュウシンキは、微動だにしなかった。
「……あ」
久遠の胸に、違和感が走る。
力が、抜けていく。
鏡宮も同じだった。
意味を失っていく。
キュウシンキが、指先で自分のこめかみを叩く。
「今ね~、あなたたちの“戦おうとする気持ち”、食べたよ」
笑顔のまま、言う。
「だって、それも感情でしょ?」
久遠の中から、怒りが消える。
恐怖も、焦りも、正義感も。
理由が、霧散する。
「……なんで……俺……」
立つ理由が、見つからない。
鏡宮も唇を噛む。
踏み出そうとしていた足が、止まる。
キュウシンキは満足そうに頷いた。
「うん。やっぱり恋供機関の子たち、出来がいいね~。感情がいっぱいで」
「か、菓子パン...」
須野は何故か菓子パンを思い出して崩れた。
「あれぇ?変な記憶とか思い出させちゃったかなぁ?まあいいや。」
一歩、近づく。
「やめとけ」
声は静かだった。
キュウシンキが目を瞬かせる。
「え?」
「お前に渡す感情は無い。」
和岸は、彼女を真っ直ぐに見据える。
「わ、和岸...?」
「和岸じゃねえか...!」
「なんで和岸が...」
3人は驚く。和岸が学校の外に出ている事に。
空気が、再び張り詰める。
キュウシンキは、ゆっくりと笑った。
「コイテンシ。やってきたんだね。」
和岸も、笑う。
「元人間風情の部外者め。」
水族館の青は、もう見えない。
ここにあるのは、感情を巡る戦場だけだった。
水槽のガラス越しに、鈍い青が揺れていた。
水族館特有の湿った空気と、微かに混じる消毒液の匂い。その中で、場違いなほど濃密な“感情の圧”が渦を巻いている。
八重歯の少女――キュウシンキは、にやりと笑った。
それは人間の笑みではない。
欲望がそのまま形になったような、剥き出しの表情だった。
「――やっぱり、気持ちいいね」
空間が軋む。
目に見えないはずの感情が、熱と重さを持って流れ込み、彼女の身体に吸い込まれていく。恐怖、混乱、焦燥。水族館に集まった人々の“揺らぎ”が、餌のように引き寄せられていた。
和岸敬一は、一歩引いた位置から静かに観測していた。
その瞳は、怒りも焦りも含まない。ただ、事実を測る目だ。
「……キュウシンキ」
低い声が空気を切る。
「お前の吸収には、範囲がある」
少女の眉がわずかに動いた。
「感情を吸えるのは、接触した空間――あるいは因果的に連結された範囲内だけだ。無制限じゃない」
その瞬間、和岸の背後で“何か”が凝縮された。
感情ではない。
純粋な力の塊。意味も意図も持たない、暴力としてのエネルギー。
それは、範囲の“外”から放たれた。
衝撃が走る。
空気が爆ぜ、水面が跳ね上がり、水槽のガラスに無数の亀裂が走った。
――だが。
攻撃は、途中で止まった。
見えない壁にぶつかったかのように、力が歪み、砕け、消えていく。
キュウシンキの口元が歪む。
「……ふふ」
次の瞬間、吸引が始まった。
衝撃そのものが、感情の代替物として引きずり込まれる。物理と精神の境界が曖昧になり、力が“吸われていく”感覚が、和岸の皮膚を撫でた。
さらに、引力が強まる。
今度は――和岸自身が、引き込まれ始めていた。
「――」
その時だった。
空間が、静かに裂ける。
「そこまでです」
澄んだ声が、戦場に落ちた。
女王が、そこに立っていた。
いつ現れたのか、誰にも分からない。
ただ、最初からそこに在ったかのように、自然に、絶対的に。
和岸は即座に一歩下がり、深く頭を垂れた。
「女王様」
キュウシンキが舌打ちをする間もなかった。
女王は、何の前触れもなく、ただ“力を行使した”。
それは衝撃ではない。
攻撃ですらない。
世界の前提が、一瞬だけ書き換えられた。
次の瞬間、キュウシンキの身体は凄まじい勢いで吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「ンゲホッ!何っ...」
音が遅れて届く。コンクリートが砕け、水槽の水が溢れ、床に広がる。
周囲にいた人々が、ようやく事態を理解し始める。
「な、なんだ……!?」
「地震!?」
「警備員を――!」
水族館は一気に騒然となった。
悲鳴と足音が重なり、感情の濁流が再び生まれる。
女王は、そのすべてに興味を示さない。
姿は消え、元からそこにいたかのように
一瞬で、キュウシンキの目の前に立っていた。
「さあ」
穏やかな声。
だが、その距離は、逃げ場のない絶対だった。
キュウシンキは、ここぞとばかりに能力を解放する。
貪欲に、必死に、感情を吸収しようと――
「……?」
吸えない。
何も、流れてこない。
「な、なんで……?」
女王は静かに告げる。
「吸収を、無効にしました」
その言葉は、宣告だった。
「私は、全てを司る力です。
吸う、吸わない。与える、奪う。
それら全ての上に立つ」
キュウシンキの顔から、血の気が引いていく。
理解してしまったのだ。
自分が、捕食者ではなく、管理対象に過ぎなかったことを。
「……そんな……」
絶望が、形になる。
その一瞬の隙を突き、キュウシンキは空間を歪めた。
無理矢理に因果を引き剥がし、逃走経路をこじ開ける。
「……っ!」
姿が掻き消える。
女王は追わなかった。
ただ、静かに、その場に立ち尽くしていた。
和岸は女王の横に立ち、低く息を吐く。
「……逃がしましたか」
「構いません」
女王は、水に濡れた床と、混乱する人間たちを眺めながら、微笑んだ。
「あの物の事は、十分に理解しました。」
その瞳は、静かに、次の物語を観測していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます