第12話
「ルミナ、今日はありがとう」
「こちらこそ!お姉様とたくさんお話できて嬉しかった」
ルミナとのお茶会は終わり、私は侍女服へと着替えた。
名残惜しさを振り切るようにして、残っている仕事の場所へと向かう。
すると、廊下で背後から声をかけられた。
「ネメシア」
振り返ると、腕を組んだ年上の侍女が立っていた。
口元には、どこか作ったような笑み。
「ちょうど良かったわ。倉の整理、手が足りなくて」
そう言いながら、彼女は一冊の帳面を差し出した。
「ついでに、これも写しておいてくれる?」
「……こちらは?」
差し出された帳面は、私には見覚えがなかった。
「古い在庫記録よ。もう誰も見ないものだけど、形式上は必要なの」
―――"形式上"。
その言葉に、わずかな引っかかりを覚える。
「貴女、仕事が早いでしょう?他の人に任せるより安心なのよ」
褒めているようで、断れない言い方。
もしそうだとしても、本当に私の仕事なのだろうか。
「量は…まぁ、少し多いけど」
一瞬だけ、侍女は帳面を視線を落とした。
その厚みを確認してから、何事もなかったように私を見る。
…確かに、古い帳面だ。
紙の重なりが、そのまま仕事量を物語っている。
「貴女なら大丈夫でしょう?」
そう言い残すと、彼女は私の返事を待たずに踵を返した。
「ちょっと――」
呼び止める間もなく、足音は遠ざかっていく。
残されたのは、腕にずしりと伝わる帳面の重さだけだった。
「……しかたない」
私は小さく行きを吐き、帳面を抱え直した。
夕食の時間に間に合うよう、足早に倉へ向かう。
―――――――――
倉に入り、帳面を開く。
紙の色は黄ばんでいて、確かに古い記録のようだった。
数字を一つずつ写していく。
…その途中で、手が止まった。
「…?」
おかしい。合計欄の数字と、内訳が噛み合っていない。
ほんの一、二行分。
見間違いかと思い、もう一度指でなぞる。
……やっぱり、合わない。
何度見直しても、答えは変わらなかった。
「古い帳面、だから…?」
そう自分に言い聞かせて、私は作業を続けた。
気づけば、帳面は何冊目かわからなくなっていた。
腕を動かすたびに、肩の奥がじわりと重くなる。
指先も少し感覚が鈍く、文字を書く速度が落ちているのが自分でもわかった。
「…ふぅ」
小さく息を吐く。
視線を上げると、渡された帳面のまだ半分ほど、残っているのが目に入る。
「……まだ、こんなに」
一度だけ背筋を伸ばそうとして、すぐに諦めた。
伸ばしたところで、楽になるわけでもない。
それに、そのまま休憩してしまいそうだった。
時計代わりに使っている窓の外を見る。
空の色が、朝よりもずっと低くなっていた。
「夕食までには…」
そう呟いて、また帳面に目を落とす。
文字が少し滲んで見えるのは、疲れているせいだ。
ここで、手を止めたら負けな気がする―――。
私は黙々と、残りの帳面を書き続けた。
暫く経った頃、遠くで鐘の音が鳴った。
夕食の準備に入る合図だ。
私は最後の一行を書き終え、帳面を閉じた。
指先はじんと痺れていたが、立ち上がれる程度には動く。
……早く夕食の準備に戻らないと。
私は倉を出て、廊下へ向かうと。
すると、向こうからあの年上の侍女が歩いてくる。
「…まだ終わってないでしょう?」
そう言いながら、私が抱えている帳面を覗き込む。
積み重なった帳面を見た瞬間、彼女の表情がわずかに強張った。
「……もう、写し終えたの?」
「はい。夕食の準備に間に合うように」
私は淡々と答えると、彼女は帳面を一冊手に取り、頁をめくった。
確認する指先が、ほんの少し震えていた。
「…ずいぶん、手が早いのね」
褒めているようだが、声は冷たい。
その視線には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「夕食の準備までには、無理だと思っていたのに」
小さく零されたその言葉に、私は何も返さず一礼する。
背中に突き刺さる視線を感じながら、私は厨房の方へと足を向けた。
―――間に合った。
それだけで、今日は十分だった。
私は夕食の準備も問題なく済ませた。
夕食の席は、いつも通り穏やかだった。
公爵が仕事の合間にあった小さな出来事を話し、サビーナ様がそれに相槌を打つ。
「それで、その商人がね―――」
「まぁ、それは大変でしたね」
楽しそうに笑うサビーナ様を見て、公爵も口元を緩めている。
私は少し離れた位置で給仕をしながら、その様子を見守っていた。
「そういえば、お父様」
話の切れ目で、ルミナがふと思い出したように言う。
「私も段々とここの生活に慣れてきました」
「ほう?それは良かった」
ルミナの言葉に、公爵は穏やかに笑った。
「それで…もっと公爵令嬢に近づけるように、前々から仰っていた家庭教師を、受け入れたいと思うの」
「…それは本当か?」
公爵は目を開き、心なしか嬉しそうな表情を浮かべた。
「わかった。なら、すぐに手配をしよう」
そう言って、公爵は近くに控えていた執事へ準備を指示した。
「ですが、条件がありまして……」
「…条件?」
ルミナは一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せ、それから意を決したように口を開く。
「学んでいる時、必ずネメシアを侍女として傍に置いてほしいのです!」
……え?
私は手にしていたポットを、落としそうになった。
…食堂に、静寂が落ちた。
私がポットを落としかけた音すら、公爵の視線がそれを許さなかったように感じる。
公爵は、すぐには返事をしなかった。
ゆっくりとナプキンで口元を拭き、紅茶に視線を落とす。
「……理由を聞こうか」
先ほどの穏やかな表情とは打って変わって、声は低く感情を抑えたものだった。
それだけで、この場の空気が一段重くなる。
ルミナは、少しだけ背筋を伸ばした。
「ネメシアは、私の一番近くで仕えてくれています。私の癖も、苦手なことも、もう分かっている人です」
公爵の視線が、私に一瞬だけ向く。
評価ではない。値踏みでもない。―――存在を確認するだけの、冷たい目をしていた。
「別の者でもいいだろう」
正論だ。私じゃなくてもいい。
けれど。
「私はこの屋敷内で一番、ネメシアを信頼しているからです」
ルミナは、一歩も引かなかった。
「他の侍女より、ネメシアが傍にいるほうが落ち着きます。それに……公爵令嬢として振る舞う私を、一番よく知っていてほしい人だから」
公爵は、再び黙り込んだ。
その沈黙は長く、重い。
使用人である私が口を挟める空気ではない。
やがて、公爵は小さく息を吐く。
「…わがままだな」
そう呟いてから、公爵はルミナをまっすぐ見据えた。
「条件は一つ。学業の妨げになると判断した場合、即刻外す。…それでいいな?」
「はい!」
即答だった。迷いは一切ない。
公爵は、ほんのわずかに口元を緩める。
「…わかった。ネメシアは、家庭教師の時間も侍女として同席を許可する」
その言葉に、胸の奥が強く脈打った。
私は慌てて一礼する。
「……ありがとうございます」
公爵の視線が、再びこちらを向く。
「期待するな。役目だけ果たせ」
―――それだけだった。
けれど、その一言は確かに"許された"重みを持っていた。
こうして私は、家庭教師の時間にも"侍女"として、ルミナの傍に立つことを許された。
それが、後にどれほど大きな意味を持つのか。
―――この時の私は、まだ知らなかった。
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