プロローグ 第三話
救急車で運ばれてから、もう数ヶ月が経った ようだ。けれど、わたしの時間はずっとあの廊下の天井を見上げた瞬間のまま、凍りついている。それは、進む元気がもうないからか、進むのが怖いからなのか。
もうわたしにはわからない・・・。
部屋のカーテンは、半分だけ閉めている。
全部閉めると夜が怖くなり、全部開けると、外を歩く「普通の生活を送っている人たち」の気配に押し潰されそうになるから、そうしているが、半分だけだと、両方の痛みを半分ずつ感じる気がする。いっそ、窓がなければ悩まずに済むと思った。
家の中にいるのは、息が詰まるほど苦しい。母と父の、わたしを腫れ物のように扱う視線や、あるいはまったく関心を持たずに通り過ぎていく背中を見るたび、心臓が冷たい手でぎゅっと握られるような気がする。
それなのに、一歩外に出るのも、同じくらい、いや、それ以上に怖かった。
外には、わたしを「不登校の、おかしな子」として見る世界が広がっている。
誰もわたしを助けてくれないのに、誰もわたしを見てくれないのに、いざ外に出れば、見ず知らずの誰かの視線に怯えてしまう。
わたしは、どこにも居場所がないのだ。
そんなふうに、薄暗い部屋で膝を抱えていた今日の午後。
ドアを控えめに叩く音がして、母が入ってきた。手には、何枚かのパンフレットが握られている。
「ねえ、早恵。ちょっといいかな」
母は、わたしのベッドの端に腰掛けた。その不自然なほど優しい声が、かえって怖く感じた。母が優しい時は、わたしに何かを押し付ける時だ。
今日は何が始まってしまうのだろうと怖くなる。
母が差し出してきたのは、カラフルな写真が並んだ冊子だった。
「ここ……フリースクールっていうんだけどね。同じように学校に行けていない子たちが集まる場所なの。ずっとお家にいるのも、早恵にとって良くないと思って。一回だけ、見学にでも行ってみない?」
フリースクール。
その単語が、わたしの耳の中で嫌な音を立てて響いた。
「……フリー、スクール?」
聞き返したわたしの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
母は、良かれと思っている顔をしている。だが、その目の奥には「早くこの問題を片付けたい」「普通のレールに戻したい」という、透けて見えるような焦燥感があった。
わたしも焦っている。しかし、体裁を重んじる母には、もっと大きな焦りがあるのだ。
行きたくない。
本当は怖い。怖くて、行きたくない。
外に出ることだけでも怖いのに、知らない場所。知らない人。ましてや「学校に行けない子」が集まる場所なんて、そこに行ったら最後、わたしはもう二度と「普通」には戻れない気がした。烙印を押されるような、そんな恐怖が全身を駆け巡る。
それなのにわたしには、断る勇気もなかった。
もしここで「行きたくない」と言ってしまったら、わたしは本当にこの、空気の淀んだ家の中に、一生閉じ込められてしまう。
母は、ますますわたしを「手に負えない存在」として、心のシャッターを下ろしてしまうのだろう。
そうなったら、わたしは本当に、この世から消えてしまうのと変わらない。何かを感じるという一番嫌な部分だけは残るのに、その他は消えてしまう。
「行かないと、もっと変になっちゃう……」
頭の隅で、そう囁いた。
不登校のまま、家で腐ってゆく自分。
それよりは、どこでもいいから「所属」という名前の逃げ場を作らないといけないのではないか。
そうしないと、わたしは本当に、篠崎早恵という人間を保っていられなくなる。
「……うん。いく」
喉の奥から、絞り出すようにして答えた。
その瞬間、母の顔がぱっと明るくなる。
「そう!よかった。じゃあ、さっそく連絡してみるわね。きっと、早恵に合うお友達も見つかるわよ」
母は弾むような足取りで部屋を出て行った。
残されたのは、静寂と、冷たいパンフレットと、わたしの吐き気だけだ。
どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。
返事をした直後、心臓が早鐘を打つように激しくなり始めた。
後悔が、どろどろとした泥水のように足元から這い上がってくる。
行きたくない。やっぱり、行きたくない。
───知らない人たちと、どんな顔をして会えばいいの?
───「学校に行けなくなった理由」を、誰かに話さないといけないの?
もしそこでも、わたしが「居ないもの」として扱われたら。
今度こそ、わたしは立ち直れなくなる。
「うん」、なんて言わなければよかった。
母を安心させたくて、あるいは自分を無理やり納得させたくて口にした言葉が、今は鋭い刃物になって自分自身を突き刺している。
わたしは、パンフレットに載っている「楽しそうに笑う子供たち」の写真を、爪が白くなるまで強く握りしめた。
その笑顔が、眩しすぎて、ひどく嘘くさく見えた。
世界はどんどん、わたしの望まない方向へ動いてゆく。
わたしの心はまだ、あの日のストレッチャーの上で震えているのに。
誰も、わたしの本当の叫びを聞いてくれないまま。
一瞬の安堵と、それを何倍も上回る絶望。
わたしは自分の愚かさと、逃げ場のない運命に、ただただ、声を殺して泣くしかなかった。
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