映画レビュー 『心中天網島』

映画『心中天網島』を観た。




この物語が大晦日のドラマであることに、あらためて気づかされる。




道行の時雨の場面では、みぞれがやがて雪景色へと変わっていく。治兵衛の罪が、自然の推移のなかで少しずつ浄化されていくかのようだ。そして、除夜の鐘(煩悩が浄化される)。




天神様――菅原道真公、芸能の神でもある――への参詣、墓場での情事、そして小梅を斬る場面。




そういえば天神様には「飛梅」があった。治兵衛自身は鳥居で首を吊る。史実的には橋々で死んだともされ、おさんのために心中したわけではないとするのだが(おさんへの義理立て)、川岸に遺体が上がったとき、二人は「一緒」になっている。




これは悲劇なのか、喜劇なのか、あるいは悲喜劇なのか。




シェイクスピア『ロミオとジュリエット』が純粋な悲劇だとすれば、義理と人情が絡みつく近松の世界は、どこか滑稽さを含んだ悲喜劇に見える。




最後、天によって結ばれる――それが「網」であるという構造も、あまりに周到だ。




近松戯曲を舞台ごと映画に取り込んだ本作は、岩下志麻が小春とおさんの一人二役を演じることで、女房と女郎という二つの〈女〉を鮮やかに可視化する。




紙屋治兵衛のどうしようもない駄目さも見事だ(駄目男の色気)。




それは単なる愚かさではなく、役者の身体が放つ色気――エロスとタナトスが絡み合う色気なのだと思う。




そこに日本的な抒情が重なる。




道行の時雨、雨の演出はとりわけ印象深い。脚本を富岡多恵子が手がけている点も、大阪(関西)の女性の強さと脆さを描くうえで意味深い。




近松の原作は、三面記事的な心中事件から立ち上がったという。




太宰治『おさん』は、その物語を女房側から書き換えた作品だ。




女房と女郎に引き裂かれる治兵衛の、どうしようもない色気。




それは境界例的なドラマとして、年末から年始へと流れ込む純愛人情劇にも見えてくる。




正直に言えば、シェイクスピア劇よりも面白い。




近松の舞台も観てみたくなった。映画では芝居の舞台を見せて破壊する。しかし、それは黒子も含めて劇の構造を見せるメタ・フィクションになっていた。




その前に、もう一度、太宰治『おさん』を読み返すべきかもしれない。




https://bookmeter.com/books/11154052

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