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二ヶ月が慌ただしい程、過ぎて、師走の半ばになった。真幸は一足早く休暇を取った。有給の許可はとれたが、嫌な顔をされた。「精神の持病が」と課長には伝えたが、事情を慮ってくれない。実際、真幸は六年前、パニック障害と診断された。その診断書を再び準備するか? と思ったが、意味がないようなほど、真幸が駆り出されている。
もう何も考えずに休みたい。
年末年始を含めた十五日の休暇内、五日分は山無県の旅館に滞在した。旅館にはこたつがあり、温まって、日がな一日ずっと過ごした。困ったのが味覚がしないことだ。何を食べても美味しくない。そうすると、厚意で胃腸に優しい食事を出された。有り難かった。
最終日の朝の今でも味がしない。熱い液体が喉を通過して、胃の中に溜まった。真幸は眼をこすり、顔を洗った。公立の公園に展望台があるので、そこに赴いた。近づくにつれ、赤い建物が見える。入口にさしかかると馬が眠そうに荷車を引いて歩いていた。人が馬の手綱を引いて誘導している。珍しい光景だ。
通りすがり、馬と目が合った。真幸は不意に振り向いた。
馬はたしかに真幸をじっと凝視していた。やがて老年のスタッフに引かれ、ふいっと前を向いて歩き出した。真幸は立ち止まった。それから展望台への階段を上がった。
見晴らしのいい眺望で、真幸は息を吸った。ゆっくりと吐いた。肩の力が抜けた。
馬の視線を思い返した。なぜだろう。妙に、懐かしい。何かを忘れていたことを思い出させてくれるような。何だろうと胸中を探った。
腹の虫が鳴った。なぜか、妙に嬉しかった。ふと「大節は元気だろうか」と思った。そんな間柄でもないのに。
真幸は散々悩んだ末、思い切って、展望台からスマホで写真を撮った。晴れた空の澄み渡る美しい風景で、その中に赤い建物が映える。それから「大節さん、元気ですか?」と一言添えて、送った。
ベンチに座ってまだ眺めていると、大節から返信が来た。「元気です」の素っ気ないメッセージの後に池を背景に、赤、桃、黄色、三つのチューリップの写真が送られた。「咲きました」と共に。真幸は返信をしなかった。それだけで満足だった。
真幸は山無から新幹線の中で通販サイトを眺めた。観葉植物を一鉢購入した。自宅に戻ると豪奢な駅弁を食べた。やけに楽しくなって、帰ってから動物系の洋画を片っ端から鑑賞した。唐突に猫がほしくなった。ネットで保護猫のサイトを見たが、すぐに飼育はできない。落ち着いたらと思った。
観葉植物が届き、ネットで調べて、慎重にホヤに水をやった。その後で外出した。数日、一歩も外出してなかったので変に緊張と恐怖を携えた。油断していると足元が掬われる。真っ逆さまに落ちないように、警戒して駅へ向かって歩いた。一月の小春日は、穏やかな陽光で、目に柔らかく突き刺さった。
駅に近づくと人が急に混雑し出した。真幸の在住地域はターミナルから一つ隣の駅だ。年末年始休暇の終日なので人がやけに多い。
人集りの中から大節の姿が現れた。
目を凝らしたが、大節だった。上山もいた。その隣に女がいる。大節と上山が手を動かし、上山と女が声で話している。
真幸は何と無しに大節らの後を追った。楽しそうな声がする。大節の表情が見えない。でも、恐らく大節は目まぐるしく二人を見ているだろう。その上で、考えているに違いなかった。だから、リアクションがはっきりしているのだろう。後ろから見ても、わかる。でもそれは途中までで、すぐに俯き出した。
間も無くビルの地下に三人は入った。真幸は後を追うか迷った。ビルの案内図を見ると、地下には飲食店が連なっているらしい。右を見れば、テラス席が目に入った。カフェだ。
ためらいはあったか、なかったか、と思うより身体が動いていた。真幸は、間を余り置かず、その店に入り、外が見えるカウンター席をまず確保した。レジカウンターで注文を済ませると、急いで席に着いた。
大節が姿を現したのは一時間を過ぎた頃だった。
出るなり、大節は手話を繰り出し、頭を下げる。女も慌てて下げるが、大節はそっぽ向いて駅の方向とは真逆の方へ指をさした。じゃあ、と手を振って素っ気なく立ち去ろうとする素振りが見えた。しかし大節の手は、女につかまった。大節は明らかに困惑している。女は気にせずに、握手をし、ぶんぶん振っていた。大節の顔の向きは女ではなく、上山に向かっている。ここから上山の表情は見えない。大節は及び腰になっている。解放されると、はっきりとした態度で、大節はきびすを返した。女はショックを受けているようで、あからさまに放心している。後ろ背でもわかる。上山の手は女の肩の前で、さまよっていた。
真幸はなぜか急に腹立たしくなった。食器や湯呑を載せたトレーを片付け、大節が向かった方へ駆け足で走った。上山の前を通ることになったが、無視した。駅から三人の様子を思い返した。道の途中から、リアクションを打っていた大節は露骨に足元ばかり見るようになった。元々、気乗りではなくて、でも、上山に合わせていたとしたら。もしかしたら、大節は断れなかったのではないか。数ヶ月前の大節と上山との間に金銭のやり取りがあったことを思い出した。
不意に、真幸が大学三年の夏季休暇前のことも想起された。なぜなのかわからない。ゼミの仲間からしつこく飲みに誘われた嫌な記憶だ。参加費がやけに高く、当時、お金が本当に無くて断りたかった。押し切られ、仕方なく乗った。結果として、わかったのは女を呼び寄せるために自分を使ったということだ。散々な目に遭い、その一件が引き金で休暇が明けたらなぜか噂が立ち、ゼミ内で完全に孤立した。
大節を追い掛けて、真幸はひたすら走った。段々と、足がもつれる。なぜ走っているのかわからない。
大節は見つからなかった。息を荒く切らして、真幸は自分でもわけがわからなく、うつむいた。
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