ビジネス婚のはずですが、軍人公爵様に毎日甘やかされてもよろしいのでしょうか?
たちばな立花
第1話 ビジネスライクな関係をはじめよう
あの傲慢で高飛車だと名高い令嬢が結婚した。
しかも相手は王家に連なる軍人公爵――アドルフ・シュダルン。彼との結婚を望む令嬢は多かった。
親のコネを大いに使ったに違いない。
だって、彼女はダンスの誘いのすべてを冷たくあしらい、いつも蔑むような目でみんなを見下しているような令嬢だ。
この結婚がうまくはずがない。すぐに終わりを迎えることだろう。
そんな噂などつゆ知らず、ミネルヴァは慣れない寝室で一人右往左往していた。
ランプが一つだけついた薄暗い部屋。
華やかに飾り立てられ、どこもかしこも綺麗で落ち着かない。
(ここで待つようにと言われたけれど、どうしたらいいのかしら?)
寝室が広すぎてどこで待っていいかのか、わからなかったのだ。
ベッドの上に座ってみたけれど、それも正解かは定かではない。
(どこで待つべきかは、聞いていなかったわ)
手持ち無沙汰になって、ミネルヴァは布団に手を伸ばす。
(ふかふか)
布団まで柔らかい。つい、何度も揉んでしまうほど。この布団で眠ったら、幸福な夢が見られそうだと思った。
華やかな部屋も、柔らかな布団も、きっと今日が特別な日だからだに違いない。
だって、今日は――……。
コンコンコン。
ミネルヴァの思考を止めるように、扉が叩かれる。
規則正しい間隔で三回。
突然のノックの音に、ミネルヴァの肩がびくりと跳ねる。
座っていてはいけない気がして、ミネルヴァは慌ててベッドから飛び降りた。
心臓が早歩きになる。宙を彷徨った手は結局寝巻のスカートに行きついた。皺ができるくらいギュッと握りしめる。
「ど、どうぞ」
いつになく、か細い声が出る。
ミネルヴァは唇を嚙みしめ、気持ちを落ち着かせるためにゆっくりと息を吐いた。
ミネルヴァはギュッと唇を真一文字に結ぶ。
扉の向こうから予想通りの男の顔が現れて、ミネルヴァの心臓がさらに早くなった。
「遅くなってすまない」
「いえ、大丈夫です」
彼の名はアドルフ・シュダルン。
今日、ミネルヴァの夫になった人だ。
ランプの灯りが彼の艶やかな黒髪を優しく照らす。
高く通った鼻梁、細く引かれた唇。硬すぎず柔らかすぎず軍人らしい精悍さを残した線が、彼の顔立ちを一層際立たせている。
軍人らしい端整な立ち姿は、ただそこにいるだけで空気を引き締めてしまう。
昼の結婚式とも、その後にあったパーティーとも雰囲気が違って、ミネルヴァの心臓は騒がしかった。
彼と目が合って、思わず顔を逸らした。
こういうときはどこを見ればいいのだろうか。あまりジロジロ見てはいけない気がして、ミネルヴァは絨毯の模様を追いかけることにした。
彼が小さくため息をつく。
「これからのことだが」
「はい」
「われわれはビジネスライクな関係でいよう」
アドルフはまっすぐミネルヴァを見つめて言った。
(ビジネス……ライク)
「わかりました」
ミネルヴァがすかさず返事をすると、彼は虚を突かれたような表情をした。
彼が何に驚いているのか、ミネルヴァにはわからない。
答えを間違えただろうか。ミネルヴァは探るようにアドルフの目を見つめる。
勇気を出して、ミネルヴァは尋ねた。
「何か問題がありましたか?」
彼は一度、コホンッと咳払いをした。
「いや、理解してくれたのであれば問題ない。では、今日はゆっくり休んでほしい。この部屋は好きに使っていい」
「はい。おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみ」
アドルフはさっさと部屋を出て行ってしまった。
ミネルヴァは閉まった扉を見つめる。まだ、心臓は早歩きのままだ。
扉を見つめながら、その場にしゃがみ込んだ。そして、ポツリと呟く。
「うまくできていたかしら?」
ミネルヴァは両手で何度も自身の頬を揉む。
今日はミネルヴァとアドルフの結婚式だった。
昼間、隣に立ったアドルフの姿を思い出して、ミネルヴァは赤く染まった両頬を押さえた。
(やっぱり、とてもかっこよかったわ)
顔合わせと、結婚式で二回。ミネルヴァがアドルフと今日までに顔を合わせた回数だ。
この結婚は父が決めてきた結婚だった。
『とてもいい男だ。きっとミネルヴァも気に入るだろう』
そう言って、父はミネルヴァの頭を撫でた。
彼のようなかっこいい人を「いい男」の一言で済ませていいのだろうか。ミネルヴァにはわからない。
けれど、ミネルヴァにはもったいないほどの好青年であることは間違いなかった。
「ビジネスライク……。ビジネスライクって言っていたわ」
聞き慣れない言葉に、ミネルヴァは何度も復唱する。
「ビジネスってお仕事のこと、よね? ……つまり、完璧な夫人になれということよね!」
今日からミネルヴァはヴァイゼン侯爵家の令嬢から、シュダルン公爵家の夫人になったのだ。
彼は「いつまでも令嬢気分でいるな。公爵夫人の仕事を完璧にこなすように」と言いたかったのだろう。
そのとおりだと思う。
(明日から頑張らないと!)
ミネルヴァは小さく拳を作る。そして、ふかふかの布団の中に潜り込んだ。
柔らかくて、いい匂いがする。――太陽の匂いだ。
ミネルヴァはゆっくりと息を吸い込んだ。
「おとうさま、おかあさま。ミネルヴァは教えをしっかりと守り、アドルフさまに見合う完璧な夫人になってみせます」
布団はミネルヴァを朝まで優しく包み込んでくれた。
◇◆◇
食事の席で言葉を発してはいけない。
それは、ミネルヴァが最初に継母から教えられた淑女としてのマナーの一つだ。
ミネルヴァはその教えをしっかりと心に刻み込み、唇を真一文字に結ぶ。
向かいに座るアドルフがちらりとミネルヴァの様子を覗き見た。
きっと、ミネルヴァが公爵夫人として申し分ない人間か確認しているのだろう。
視線を感じ、ミネルヴァは背筋を伸ばす。
公爵夫人として、ふさわしくない行動をしてしまっただろうか。
(食事の席では音を出してはいけない。言葉を発してはいけない。感情を表に出してはいけない。それからそれから……)
継母の言葉を頭の中で反芻する。
実母を幼いころに亡くしたミネルヴァにとって、継母の教えだけが頼りだ。
継母は厳しくも優しい人で、いつか他家に嫁ぐミネルヴァを想って、淑女に必要なたくさんのことを教えてくれた。
要領の悪いミネルヴァは、そんな彼女をいつも困らせていたと思う。
(教えられたとおりにすれば大丈夫。おかあさまもそう言っていたわ)
ミネルヴァはゆっくりと胸に手を当てて心を落ち着かせる。そして、テーブルの上に視線を移した。
(まるでパーティー会場みたいだわ)
大きなテーブルに並んだ豪華な料理の数々を見て、ミネルヴァは思わず感嘆のため息をこぼした。
どれもおいしそうなのだ。
昨日の結婚式がまだ続いていると言われても信じただろう。
ミネルヴァは出されたスープを口にした。
(このスープとってもおいしいわ……!)
ミネルヴァは思わず目を見開く。
優しい味が口の中いっぱいに広がった。
家で食べていたほとんど水のようなスープとはまったく違う。きっと、名のある料理人が作った特別な物に違いない。
何よりもあたたかかった。
アドルフは王位継承権を持つ王族に連なる身分だ。やはり、普通の貴族とはふだんから食べている物が違うのだろう。
向かいに座る彼は、ナプキンで上品に口を拭いながら言った。
「口に合うか?」
唐突な問いに、ミネルヴァの肩が小さくはねた。
アドルフはミネルヴァの返事を聞かずに言葉を続ける。
「君の好みがわからなかったから、いつもどおりの朝食を用意させた。もし要望があれば伝えてほしい」
ミネルヴァは彼の言葉にゆっくりと頷いた。
(これがいつもどおりだなんて……! 要望なんて思いつかないわ)
こんなにおいしいスープが毎日出てくる朝を想像するだけで、胸が幸福で満たされそうだ。
「これからのことだが、まだ慣れないことばかりで大変だろう。ここの生活に慣れるまでは、何もしなくていい」
ミネルヴァはスープをすくったスプーンを置きながら、目を瞬かせる。
(何もしなくていい? それって……)
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