第3話 『母である前に』
ドライヤーの音が、部屋に低く残っていた。
加奈子は髪を乾かしながら、ベッドの縁に腰を下ろす。
マットレスがわずかに沈み、その感触に、張り詰めていた身体が少しだけ緩んだ。
「……ふう……」
小さく息を吐く。
それは安堵にも似ていたが、完全に力を抜くことはできない。
今日一日、積み重なった疲労が、遅れて身体の奥から滲み出してくる。
ドライヤーのスイッチを切ると、部屋は急に静かになった。
耳の奥で、まだ微かに音が鳴っている気がする。
――帰りの車の中。
フロントガラスの向こうで、街灯が一定のリズムで流れていく。
ハンドルを握る手に、知らず力が入っていた。
思いついた。
いや……思いついてしまった。
明日香の力。
クロノス因子。
世界を救うために、あの力が必要になるかもしれない。
母としてではなく、研究者としての思考が、静かに、だが確実に頭を占領していく。
一瞬、意識の奥で、青い光が波紋のように広がった。
制御されない力。
だが、正しく導けば、暴走したクロノスに立ち向かえる可能性。
「……だめだよ……」
声が、自然と零れた。
誰に向けた言葉でもない。ただ、口に出さずにはいられなかった。
母親としての本能が、研究者としての思考を拒む。
それでも――クロノスが再び暴走したとき、明日香の力は、きっと必要になる。
視界の端に、机の上の観察日誌が映った。
無意識のうちに、加奈子はベッドを立ち、日誌を手に取る。
ページを広げると、紙面が部屋の灯りを受けて淡く光った。
文字が視界に散り、指先でページを押さえながら、頭の中を整理する。
薬の調整。
力を抑える成分を、ほんの少しずつ減らす。
代わりに、睡眠薬を微量増やす。
眠っている間、明日香の力は表に出ない。
安全ではある。
だが、それは同時に、別の危うさも孕んでいた。
隣の部屋から、規則正しい寝息が微かに聞こえる気がした。
加奈子は視線を上げ、扉の向こうを思い浮かべる。
眠る明日香。
穏やかな呼吸。
柔らかな影に包まれた、小さな身体。
守りたい。
それだけは、揺るがない。
加奈子は日誌を閉じ、ベッドに戻ると、布団を引き寄せて潜り込んだ。
視界が布に遮られ、世界が狭くなる。
――今夜は、考えない。
研究者としての考えを、胸の奥に押し込める。
母としての感情に、身を委ねるように。
ドライヤーの余韻が消え、部屋は完全な静けさに包まれた。
加奈子は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整える。
その静寂の奥で、未来への不安だけが、かすかに残り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます