第5話 動けなかった
廊下は、人で溢れていた。
移動授業の時間帯。
ノートを抱えた生徒たちが、同じ方向へ流れていく。
その流れに逆らうことも、急ぐこともせず、僕は壁際を歩いていた。
その中を歩きながら、僕は、理由の分からない落ち着かなさを抱えていた。
胸の奥に、何かが引っかかっている感じ。
考え事をしているわけでもないのに、呼吸が浅くなる瞬間がある。
……大したことじゃない。
そう思って、やり過ごしてきた。
前方、人混みの向こうで、ひとりの女子生徒が歩いていた。
制服姿。
特別目立つわけでもない後ろ姿。
なのに。
その手に提げられたものが、なぜか目に留まった。
ペンケース。
淡い色合いで、少し使い込まれた角。
……見覚えが、ある。
同じもの、かもしれない。
そう思っただけだ。
顔は見えない。
距離もある。
それなのに、視線が離れなかった。
人と人の隙間を縫うように、その女子生徒は歩いていく。
ぶつかりそうになると、ほんのわずかに身体を引く。
触れない距離を、無意識のようで、迷いのない動き。
その仕草を見た瞬間、胸の奥が、かすかにざわついた。
――あ。
違う。
まだ、そう決めるには早い。
「早川ー、次こっちだよ」
少し前から、声が飛んだ。
女子生徒が足を止める。
振り返る。
その横顔が、ちらりと見えた。
ソラだ。
間違いない、と言い切れるほどの確信じゃない。
でも、さっきまでの違和感が、静かに形になる。
彼女は何事もなかったように、人の流れに戻っていく。
その背中を見ながら、僕は、別のことを思い出していた。
棚の前。
背中に触れた、手のひら。
あのときの、必要だったのか分からない接触。
さっき見た、人を避ける動き。
――だったら、あれは。
考えかけて、やめる。
言い切る理由は、どこにもない。
ただ。
あの距離を、
あの触れ方を、
選んだのが彼女だったかもしれない。
それだけで、
胸の奥が、少しだけ落ち着かなくなった。
ソラは、まだこちらに気づいていない。
人混みに紛れながら、当たり前みたいに歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、僕は、ゆっくりと息を吐いた。
――今日も、当番だ。
きっと、また会う。
そう思っただけで、心拍が、わずかに早くなった。
***
図書室は、いつも通り静かだった。
放課後の空気が落ち着いてきた頃合いで、閲覧席にはほとんど人がいない。
カウンターの内側に座り、僕は返却本をまとめていた。
作業は単調だ。
背表紙を揃えて、分類を確認して、束ねる。
考え事をしなくて済むはずの時間。
――なのに。
昼の廊下で見た後ろ姿が、頭の片隅から離れなかった。
考えないようにして、本に視線を落とす。
そのとき、すり、すり、とスリッパが床を擦る音がした。
「先輩、お疲れさまです」
聞き慣れた声。
顔を上げると、ソラが立っていた。
制服姿のまま、いつもの余裕を残した表情。
特別な変化はない。
けれど、目が合った瞬間、昼間の違和感が、静かに蘇る。
「……お疲れ様」
そう返しながら、視線をすぐに手元へ戻した。
長く目を合わせる理由は、ない。
ソラは何も言わず、当然のように僕の隣へ回り込む。
いつもの席。
カウンターの、少し近すぎる位置。
座るために、僕の後ろを通る。
そのとき、肩に、軽く触れた。
制服越しに手のひら。
一瞬だけ。
掴むほどでもなく、すり抜けるほどでもない。
ソラはそのまま椅子に腰を下ろす。
何事もなかったみたいに。
心臓が、一拍遅れて音を立てる。
「返却本、多いです?」
カウンターの上を覗き込みながら、ソラが言った。
「……いつも通り」
一瞬迷ってから、続ける。
「もう、終わっちゃう」
ソラは、ほんの少しだけ目を細めた。
納得したような、分かっていたような間。
「やっぱり」
それから、軽く息を吐く。
「今日も、暇になりそうですね」
そう言いながら、体の向きを、ほんの少しだけこちらに寄せる。
言葉は、何でもない。
でも、その距離が――
僕は、また視線を外した。
返却本の背表紙を揃えながら、胸の奥の落ち着かなさを、やり過ごそうとする。
ソラは、もうここにいる。
それが当たり前みたいに。
返却本は、すぐにまとめ終わった。
最後の一冊を束にして、カウンターに置く。
時計を見る。
針は、思ったより進んでいない。
静かだ。
紙をめくる音も、足音もない。
ソラは、浅く腰かけて片肘をつき、
カウンターの向こうを眺めるように、ぼんやりと正面を見ていた。
話すこともなく、
視線も合わないまま、時間だけが流れる。
その時だった。
机の下。
足元に、違和感があった。
……触れている。
制服の布越しでも分かる。
体温。
じっとしているというより、
無造作に伸ばされたままの足。
押されているわけでもない。
絡められているわけでもない。
ただ、当たっている。
動かない。
僕が動かなければ、
そのままでいるつもりらしい。
息を詰める。
足を引く理由は、いくらでもあるはずなのに、
身体が先に判断を止めていた。
視線を上げる。
ソラは、片肘をついて、
頬に指を添えたままこちらを見ていた。
からかうような色は、たしかにあった。
けれど、何かを確かめているのかどうかまでは、分からない。
ただ、退屈そうなのに、
目だけはこちらを離さない顔をしている。
「……どうしました?」
首を傾げて、そう言う。
声は低くもなく、高くもなく、
いつも通りの温度。
「顔、ちょっと固いですけど」
足は、動かない。
まるで、触れていること自体に意味がないみたいに。
「……いや」
短く返して、また視線を手元に落とす。
ソラは、ふうん、と小さく息を漏らした。
「もう終わったんですね」
返却本をちらりと見る。
「早いなあ」
残念そうでも、嬉しそうでもない。
本当に、ただの感想。
「終わったら、何します?」
質問というより、独り言に近い。
僕が答えないでいると、彼女は少しだけ身体を伸ばした。
その拍子に、足が、わずかにずれる。
擦れるような感覚。
「……あ」
ソラは、自分の足元を一瞬だけ見て、
すぐに何事もなかったように戻した。
「狭いですね、ここ」
それだけ。
謝りもしないし、
言い訳もしない。
足は、引かれない。
僕のほうが、
どうしていいか分からなくなっているだけだ。
「暇になると」
ソラが、ぽつりと言う。
「時間、長く感じません?」
その言葉に、
今の状況を当てはめていいのか分からなくて、
返事が遅れる。
彼女は、それを待たずに続けた。
「ボク、暇だと余計なことしちゃうんですよ」
軽い調子。
意味を深掘りさせない声音。
――暇つぶし。
そう思えば、
全部、説明がついてしまう気がした。
足も。
距離も。
視線も。
これまでも――
それなのに。
足に残る感触が、
その考えを、静かに否定してくる。
ソラは、変わらない。
真剣さとは無縁の表情で、
ただ、隣にいる。
ソラは、少しだけ身を乗り出した。
椅子を引く音も立てず、
ただ、距離を詰めただけなのに――
気配が、急に近くなる。
耳元。
吐息が触れるほどの位置。
「……そういう時間、嫌いじゃないですけど」
囁き声だった。
誰に聞かせるでもない調子。
内容だけを聞けば、
どうでもいい一言。
なのに。
耳の奥に、
直接落とされたみたいに残る。
足は、まだ触れている。
けれど、ソラの意識はもうそこにないようで、
言葉だけが、僕のほうを向いていた。
一拍。
それから、
ふっと圧が消えた。
足が、離れる。
触れていたはずの場所が、
急に冷えた。
椅子が、静かに引かれる。
ソラは立ち上がり、
何事もなかったように返却本に手を伸ばした。
「じゃあ、ボクが棚に返してきますね」
本を抱えながら、
ちらりと、こちらを見る。
「先輩、動けないみたいなんで」
からかうような笑み。
深刻さの欠片もない声。
ソラはそのまま背を向け、
足音を忍ばせて、棚の間へ消えていく。
カウンターの内側。
僕は、まだ椅子に座ったまま、
離れたはずの感触を、足元に探していた。
意味があったのかどうかなんて、分からない。
分からないままでも、
ひとつだけ確かなことがある。
――あれは、暇つぶしで済ませていい接触じゃなかった。
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