先輩、逃げ場ないですよ?

カクダケ

第1話 隣の席、近すぎる声

 静かなはずの、放課後の図書室。

 利用者は少なく、席もほとんど空いている。


 それなのに、落ち着かない。


 原因ははっきりしている。

 隣に座っている彼女のせいだ。


 カウンター席。

 二人で使うにも充分なはずなのに、肩が触れそうな距離に彼女は座っている。


 本を開いているのに、視線はページの上を滑るだけだった。

 文字を追っているつもりでも、意味が頭に残らない。

 顔を上げれば、彼女がいると分かっているから。


 少し動けば当たりそうな距離。

 椅子を引くほどでもない。

 けれど、このままだと気になって仕方がない。


「……先輩」


 不意に声をかけられて、肩がわずかに跳ねた。


 顔を上げる前に、視界の端に彼女の影が落ちる。


「なに読んでるんですか?」


 覗き込むような仕草。

 彼女の視線は、本よりも先に、最初から僕を見ていた。


 近い。

 思ったよりも、ずっと。


 僕が読んでいる本に、彼女は一度だけ視線を落とした。

 表紙を確認して、ほんの一瞬だけ首を傾げる。


「……あれ」


 小さく、独り言みたいに呟いてから、すぐにこちらを見る。


「今日は、あのライトノベル、読まないんですか」


 心臓が、分かりやすく跳ねた。


「な、なに……」


 言葉が詰まる。

 なぜ知っているのか、という疑問が、答えより先に浮かぶ。


 彼女は待ってくれない。


「この前、先輩がここで読んでたやつです」「女の子がいっぱい出てくるやつ」


 さらっと。

 本当にさらっと言う。


 逃げ場がなくなる。


「読んでるとき、ページめくるの早いんですよね」「あと、ちょっと姿勢変わる」


 そんなところまで見ていたのか。


「いや、そんなこと……」


 否定しようとして、言葉が途切れる。


「……今日は、真面目なんですね」


 そう言って、彼女は少しだけ笑った。

 からかいというより、確信を持って楽しんでいる顔。


 そのまま、わずかに距離を詰める。


「そっか――」


 声が低くなる。


「ボクが隣にいるときは、読まないんだ」


 意味を理解した瞬間、喉が詰まった。


「べ、別に……」


 図星だ。

 うまく反論できない。


 彼女の視線が、楽しそうに細くなる。


「先輩って――」


 一拍。


「……えっち」


 囁くみたいな一言。

 それだけで、顔に熱が集まるのが分かった。


 冗談だと分かっている。

 からかわれているだけだ。

 そう思おうとしても、胸の奥がざわついたまま静まらない。


 僕の視界はそのまま本に向いている。

 けれど、やっぱり文字は頭に入ってこない。


「……動揺しすぎじゃないですか」


 気づけば、彼女はさっきより少しだけ身を乗り出していた。

 机に置かれた肘。その距離が、確実に近い。


「そんなに意識されると、ボクまで困ります」


 困っているようには見えない。

 むしろ、余裕すら感じる。


 指先が、袖に触れた。

 偶然だとは思えない、ほんの一瞬。


「……ほら」


 低い声。


「こういう反応、隠す気ないですよね」


 返す言葉が見つからない。


 そのとき、遠くで本の落ちる音がした。


 彼女は一瞬だけそちらを見ると、何事もなかったように体を引く。

 さっきまでの距離が、嘘みたいに戻る。


「続き、どうぞ」


 淡々とした声。

 それだけ言って、椅子に背中を預けた。


 取り残されたのは、僕だけだ。

 ページをめくる指が、微かに震えていた。


 彼女は何事もなかったかのように、本へ視線を戻した。

 さっきまでこちらを追っていた気配だけが、席に残っている。


 ページをめくる音。

 それが、妙にゆっくりに感じられた。


 僕は視線を落としたまま、息を整えようとする。

 なのに、隣の気配が近いままで、思うように落ち着けない。


 彼女が、ほんの少しだけ体勢を変えた。

 椅子がきしむほどでもない、小さな動き。


 それだけで、距離が変わった気がした。


「……先輩」


 今度は、さっきよりも低い声。

 本から目を離さないまま、彼女は言う。


「さっきから、同じページですよ」


 指摘されて、初めて気づく。

 慌ててページをめくろうとして、手が止まった。


「無理しなくていいですよ」


 淡々とした口調なのに、なぜか逃げ道を塞がれた気分になる。


 彼女は、ちらりとこちらを見た。

 ほんの一瞬。確認するだけみたいな視線。


 でも、それで十分だった。


「先輩、分かりやすいですから」


 含みを残したまま、そう言って。

 彼女はまた、本へ戻る。


 何もされていない。

 直接触れられてもいない。


 それなのに、席を立つという選択肢だけが、最初から消えていた。


 廊下の向こうから、下校を促す放送がかすかに聞こえた。


 彼女はそれを合図みたいに、本を閉じる。

 立ち上がる気配に、僕も遅れて椅子を引いた。


 並んで歩き出す直前。

 彼女は、ほんの一瞬だけこちらを振り返る。


「……先輩」


 呼ばれて、足が止まる。


「次は、どんな反応してくれるか」


 小さく笑って、そう付け足す。


「楽しみにしてますね」


 それだけ言って、彼女は先に歩き出した。


 予告みたいな一言が、耳の奥に残る。


 逃げ場がないのは、たぶん――明日も同じだ。

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