元カルト教祖の異世界転生、反省も贖罪もないまま詐欺師の加護で人の人生に口を出す
道草ふみ
第1話
冷たいコンクリートの感触は、横になっても変わらなかった。背中に当たる硬さが、体温を奪うというより、こちらの存在を確かめるように押し返してくる。留置場の天井は低く、白いはずの色は何度も洗われた雑巾のようにくすんでいた。灯りは消えない。夜か昼かの区別は、もう意味を持たない。
鉄格子の向こうで、足音が止まる。誰かが立ち止まる気配だけがして、声はない。話す必要がないのだろう。ここにいる理由は、すでに共有されている。紙の上でも、空気の中でも。名前は呼ばれない。呼ばれる必要がない。
掌を返す。爪は短く、整っている。汚れはない。留置場に連れてこられたとき、丁寧に調べられ、丁寧に返された。丁寧という言葉は、ここでは安心を意味しない。ただ、事務的で、過不足がないというだけだ。
目を閉じると、視界の裏側に断片が浮かぶ。声。表情。沈黙。どれもが、こちらを責めるものではない。むしろ、理解しようとする側のものだ。理解は、いつも遅れてやってくる。あるいは、理解の形をした何かが。
笑っていた人がいた。泣いていた人もいた。怒っていた人もいたが、最後には静かになった。静かになるまで、待つのは得意だった。待つことは、力を使わない。待っている間に、相手は自分で話し始める。話し切ったあとに残るのは、疲れと安心だ。その隙間に言葉を置くのは、難しくない。
こちらが何かを命じたことはない。決めたのは、いつも相手だ。選んだのも、相手だ。そういう形が、いちばん長く残る。責任も、選択も、元の場所に戻る。戻るべき場所に。
ただ、戻った先で何が起きるかまでは、誰も見ていなかった。
鉄格子の外で、紙の擦れる音がする。誰かが何かを書いている。筆圧は強い。こちらの顔を見ないまま、淡々と進む。記録は必要だ。記録があれば、説明ができる。説明ができれば、処理ができる。処理が進めば、いずれ裁かれる。
裁判までは、まだ遠い。だが、行き着く先は見えている。
量ではない。金額でもない。回数でもない。
扱ったものの性質と、関わった人数と、残った結果。
それらを並べれば、選択肢は限られる。
死刑か、無期。可能性は、かなり高い。
その予測に、恐怖はない。
あるのは、不快感だ。
最も嫌うのは、世界に対するコントロールを失うことだ。
他人に命の扱いを委ねること。
時間も、場所も、終わり方も、すべてを他人の手に預けること。
それは、敗北ではない。屈辱だ。
だから、選択はここにある。
ポケットに指を入れる。感触は、想定どおりだ。小さく、軽い。角は丸く、飲み込むときに引っかからないように整えられている。色はない。透明でもない。意味を持たせないために、意味のない形をしている。
これは、偶然ここにあるものではない。
偶然という言葉は、便利だが、正確ではない。
用意は必要だった。
時間をかけ、段階を踏み、役割を分けた。
採る人がいて、乾かす人がいて、量を確かめる人がいた。
根に近い部分を扱うのは、慣れた手だ。
白い花は、見た目ほど無垢ではない。
山の影で育つものほど、強く、速く、静かに効く。
誰かにやらせたわけではない。頼んだこともない。
彼らは、自分でやった。やりたいと言った。
役に立ちたいと言った。
役に立つことは、救いになる。
救いは、いつも自分の中にあると信じるほうが、楽だ。
鉄格子の向こうで、咳払いが一つ。気配が動く。巡回だろう。視線がこちらに向くのを感じる。目を開け、視線を返す。特別な感情はない。怒りも、恐怖も、焦りも。必要がない。ここで感情を動かしても、何も変わらない。
変わることがあるとすれば、体の内側だ。
時間は、もう十分に経っている。
選択は、先に済ませてある。
残っているのは、手順だけだ。
カプセルを取り出す。指先で転がすと、軽い音がする。小さな音だ。これで終わるというには、あまりに静かだ。だが、終わりはいつも静かだ。騒がしいのは、始まりと途中だけだ。
口に含む。味はない。噛まない。噛む理由がない。水は必要ない。唾液で十分だ。喉を通る感覚は、ほとんど残らない。意識は、はっきりしている。考えは、澄んでいる。
体の奥で、何かが変わり始める。
最初に来るのは、痺れではない。
次でもない。
順序は知っている。知っているから、驚かない。
心臓の鼓動が、少しだけ意識に上がる。
早くも遅くもない。
呼吸は、浅くなる。
深く吸う必要がなくなる。
視界が、狭くなる。天井の灯りが、にじむ。
にじみは、涙のせいではない。
理由は、根にある。
根に触れたものの、正しい反応だ。
思い出す必要のないことを、思い出さない。
後悔もしない。
後悔は、選択を誤ったときに生まれる。
選択は、誤っていない。
結果がどうであれ、過程は最適だった。
少なくとも、自分にとっては。
誰かの顔が浮かぶ。
宿の娘のような、まだいない誰かの顔。
笑っている。こちらを信じている。
信じることは、悪いことではない。
信じるほうが、楽だ。
楽であることは、続く。
胸の奥が、きつくなる。
指先が冷える。
音が遠くなる。
鉄格子の向こうの世界が、布一枚隔てたように薄くなる。
呼吸を数えようとして、やめる。
数える意味がない。
最後に思うのは、静けさだ。
騒ぎは、外で起きる。
ここは、静かだ。
静かなまま、終わる。
瞼が落ちる。
灯りが、消えたように見えるが、実際には消えていない。
見る側が、いなくなるだけだ。
それでいい。
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