第8話 領域⑩

東地は深く意識を集中させ、静かに目を開いた。

視界に入ったのは、固唾をのんで見守っていた点野と羽生の姿だった。


「……どうでした? 古川さんは」


点野の落ち着いた問いに、東地はわずかに首を振る。

それだけで、室内に重い空気が落ちた。


「そう……」


点野が低く呟き、ベッドに横たわる古川へ視線をやる。

点滴の雫が落ちる音だけが、妙に大きく聞こえた。


東地は苦笑を浮かべ――しかし、その目の奥は張りつめたまま言う。


「古川さんは……ええ。とても元気そうでしたよ。

但馬君に嫉妬してしまうくらいにね。

まるで漫才のような掛け合いをしておられました」


疲れを滲ませた声音に、羽生が思わず「ぷはっ」と噴き出した。


「……マジかよ。あの状況で漫才してんのか、あいつ」


「……迎えに行った立場としては……笑うに笑えませんよ」


東地は困ったように笑う。

だがその笑みの奥にある緊張を、羽生は見落とさなかった。

すぐに表情を引き締め、低い声で問いかける。


「で? 連れて戻れなかったのか」


「……邪魔されました」


「但馬に?」


「いえ――香奈枝さんに」


その名が落ちた瞬間、羽生の目が大きく見開かれた。

一拍、呼吸の音が変わる。


「……おい、話したのか? 香奈枝と」


「ええ。わずかな時間なら意識を保てるようでした。

……そして彼女は、僕をここに呼ぶために古川さんを利用したようです」


羽生が息を呑む。

点野は何も言わず、ただ静かに状況を受け止めた。


東地は視線を伏せ、ベッド脇へ歩み寄る。

眠る古川の手。包帯に覆われた指先へ、そっと触れた。


「古川さんは……“人質”として取られてしまいました」


「人質?」


羽生の声が擦れる。苛立ちと困惑が混じった響きだった。


「あいつは何を考えてるんだ……」


東地は指先を離し、淡々と続ける。


「弟を助けたいのでしょう。

そして同時に――僕に復讐を手伝わせたいのだと思います」


「復讐……」


羽生の眉間に深い皺が刻まれる。

東地は短く息を吐いた。


「タイムリミットは五日。

それを過ぎれば古川さんは但馬姉弟と共に――“蟲毒”に取り込まれる」


「なんで古川まで……」


羽生の吐き捨てるような声。

東地は悔しさを押し殺したまま答える。


「香奈枝さんが、箱の側に彼女を引き込んだから……です」


沈黙が落ちた。

責めるべき相手は明確なのに、今は怒りをぶつける余裕すらない。

東地は一度目を閉じ、静かに言った。


「……僕の責任ですね。必ず助けなくてはなりません」


その声音に、決意の硬さがあった。

羽生はしばし言葉を失い――やがて、低く呟く。


「責任なら、俺にある。香奈枝を放っておいたのは俺だからな」


だが点野が、穏やかに割って入った。


「まあ、責任の所在は今はどうでもいいよね」


二人の視線が点野に集まる。

点野は淡々と、しかし揺るぎなく続けた。


「まずは古川さんを助ける。それが最優先でしょ?」


――そうだ。

責任は後でいい。今は彼女を現実に取り戻すことだけが全てだ。

東地は頷き、淡々と次の手を口にする。


「明日、前条寺家に行きます。

教祖との食事会を設けてもらえるよう頼んでみます」


羽生が険しい目で東地を見る。

だが点野は、先回りするように言った。


「じゃあ僕は、その席で料理人として潜入できるように根回ししておくね」


その声音はいつも通り穏やかで、恐ろしいほど冷静だった。

羽生が何か言いかけた、その瞬間。


東地が羽生をまっすぐに見た。


「羽生君。あなたは古川さんの傍にいてあげてください。

……耳元で、説教でもして」


「……説教?」


目を瞬かせる羽生に、東地は小さく笑みを浮かべる。

けれど、その笑みはすぐに消えた。


「ええ。案外、そういう声の方が

――彼女を現実に繋ぎとめるかもしれませんから」


羽生は唇を引き結び、ベッドの古川を見た。

怒鳴りたい。叱りたい。

だが、それ以上に――戻ってきてほしい。


「……分かった」


短い返事。

けれど、それは命綱みたいに確かな約束だった。


東地は最後にもう一度、古川の手へ視線を落とす。

包帯の下の火傷が、現実の重さを突きつけてくる。


――五日。

その期限の中で、必ず取り戻す。


東地は静かに息を吐き、顔を上げた。


「では、動きましょう」

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