第2話 再開②
思わず院内へ足を踏み入れると、そこにはコーヒーをこぼして
右往左往している東地先生の姿があった。
「だ……大丈夫ですか?」
「え? ……あ。古川さん?」
子どもみたいに慌てる先生に苦笑しつつ、
私は壁際に掛かっていた雑巾を手に取る。
床を拭いて、転がったカップを拾い上げる。
砂糖の甘い匂いが、じわっと広がった。
「すみません……ちょっと躓いたら、連鎖反応で大惨事に」
「火傷は?」
「大丈夫ですよ。仮に火傷してても、僕は医者ですし――ここは病院ですから」
「……そうでしたね。なんだかデジャヴ。ふふっ」
前回の火傷事件がよみがえって、思わず笑ってしまう。
先生は、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「お久しぶりです。火傷の具合は?」
「はい、もう痛くもないです。
……あっ、すみません! 勝手に入ってしまって!」
慌てて頭を下げると、先生は首を横に振る。
「気にしなくていいですよ。……驚かせてしまいましたね」
柔らかな笑顔に、胸の奥がじんわり温まる。
「それで? 今日はどうされたんですか」
「えっと……実は今日、面接があって。採用が決まったんです。
それで、先生に報告したくなっちゃって……」
口にした瞬間、我に返る。
――冷静に考えれば、親しい友人でも何でもないのに。
舞い上がって押しかけただけじゃないか、という羞恥が一気に押し寄せた。
「……それだけ伝えたかったので。では、失礼します!」
踵を返し、ドアノブに手をかけた、その瞬間。
背後から伸びた手が、ノブの上にそっと重なった。
「せっかく報告に来てくれたのに――おめでとうも言わせず帰るなんて。
寂しいです」
低く穏やかな声に、心臓が跳ねる。
押さえる力は強くないのに、逃げ道だけがふっと塞がれた気がした。
「で……でも、先生とは親しい友人でもないですし」
「なら、これから親しくなればいいだけです。大丈夫。迷惑だなんて思いませんよ」
優しい眼差しと一緒に差し出された言葉に、喉の奥が熱くなる。
私が“迷惑じゃない”と言われることに、こんなに弱いなんて、自分でも知らなかった。
「……おめでとうございます。就職、よかったですね」
「……ありがとうございます」
見上げた先生の顔は驚くほど穏やかで、沈みかけていた心をすくい上げてくれた。
「ケーキはありませんが、いただき物のクッキーがあります。
コーヒーを淹れて、お祝いしましょう」
「えっ……でも、悪い気が」
「遠慮はいりません。どうぞ」
促されるまま、奥の小さなキッチンへ向かう。
すぐそばに二階へ続く階段があり、どうやら住居兼用らしい。
「先生、ここにお住まいなんですか?」
「ええ。祖母から譲り受けた建物でね。古いけど、趣があって気に入ってるんです」
「素敵です……昭和レトロな雰囲気、すごく落ち着きます」
湯を沸かし、コーヒーを用意する。
不思議と手が自然に動いて、二度目とは思えないほど居心地がよかった。
そのとき、先生がぽつりと呟く。
「引き寄せの法則、ですかね」
「え?」
「また古川さんに会いたいなって、思ってたんですよ。
……だから、こうして再会できた」
胸の奥が、すくわれたみたいに高鳴る。
――きっと、再就職のことを気にしてくれていただけ。
そう言い聞かせても、頬の熱は隠せなかった。
「覚えていてくださるうちに、報告できてよかったです」
微笑み合いながら味わったコーヒーの時間は、驚くほど早く過ぎていった。
◆
「本当にありがとうございました。お忙しいのに」
「僕こそ嬉しかったです。ぜひ、また遊びに来てください」
「え? 本当にいいんですか?」
思わず問い返す私に、先生は目を細め、穏やかに笑う。
「ええ。だって僕たちは――もう他人じゃありませんから」
その言葉が胸の奥に小さな灯をともして、思わず笑顔がこぼれた。
「……はい!」
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