電気工事士×異世界転生_配線勇者は黙々と繋ぐ ~電気工事士、異世界で神経系を構築する~

もしもノベリスト

第一章 落雷

夕暮れの空が、紫から藍へと滲んでいく時刻だった。


 鷹野修平は高さ十五メートルの足場に立ち、眼下に広がる新都心の街並みを一瞥した。すでに点灯し始めたビルの窓明かりが、まるで地上に落ちた星座のように瞬いている。あと三時間もすれば、この景色に新しい光が一つ加わる。彼がいま結線作業を終えようとしている、この二十階建ての複合商業施設の明かりが。


「鷹野さん、メガーの数値、〇・五超えてますね」


 足元から田中の声が上がった。二十三歳、入社二年目の見習い電工だ。絶縁抵抗計——通称メガー——を手に、不安そうな顔で修平を見上げている。


「どこの回路だ」


「三階東側の照明系統です」


 修平は脚立を降り、田中の手元を覗き込んだ。デジタル表示が〇・五二MΩを示している。法定基準は〇・一MΩ以上だから、数値としては問題ない。だが——


「基準はクリアしてますけど、他の回路が全部一・〇以上なのに、ここだけ低いのは気になりますね」


 田中の観察眼は悪くない。修平は無言で頷いた。


「良い着眼だ。原因は何だと思う」


「えっと……」田中は図面を広げ、配線経路を指でなぞった。「この区間、スリーブ入れのとき、型枠が狭かったって躯体屋さんが言ってました。CD管が潰れかかってたのかも」


「なら」


「入線のときにケーブルの被覆が傷ついた可能性がありますね」


 修平は小さく笑った。


「正解だ。じゃあ、どうする」


「今日の引き渡し前に、該当区間を再チェックします」


「そうだな。ただし」


 修平は空を見上げた。西の空に、巨大な入道雲が盛り上がっている。雲の底は鉛色に染まり、稲光が時折その輪郭を照らしていた。


「夕立が来る前に終わらせろ。高所作業は中断だ。俺が見てきてから、二人で確認に行く」


「了解です」


 田中が階段を駆け下りていく足音を聞きながら、修平は工具袋を肩にかけ直した。三十二歳、第一種電気工事士として十年。この仕事を始めた頃は、見習いとして先輩の手元ばかり務めていた。資材を運び、ゴミを片付け、脚立を支え。誰にも見えない場所で、誰にも評価されない仕事を黙々と続けてきた。


 今では若手に教える立場になったが、自分の仕事の本質は何も変わっていない。


 見えないところで、確実に繋ぐ。


 それだけだ。


 分電盤室への通路を歩きながら、修平は今朝の朝礼を思い出していた。


「本日の危険予知活動、発表します」


 元請けの監督が読み上げる声。百人近い作業員が整列する現場の空気。


「高所作業時の墜落・転落。足元確認、三点支持の徹底。それから——」


 そこで監督の視線が修平に向けられた。


「電気関係。本日は高圧受電設備の最終確認があります。鷹野さん、何か」


「はい」


 修平は一歩前に出た。


「高圧受電設備は六千六百ボルトです。直接触れれば即死、近づくだけでも感電の危険があります。作業中は必ず絶縁用保護具を着用し、検電確認を怠らないこと。それから」


 彼は一同を見回した。


「今日は午後から天気が崩れる予報です。雷注意報が出たら、即座に高所作業を中止してください。落雷は予測できません。安全第一でお願いします」


 自分で言った言葉が、今になって皮肉に思えた。


 分電盤室に入り、修平は受電設備のチェックリストを確認した。六千六百ボルトの高圧から、百ボルト・二百ボルトの低圧に変換する心臓部。この設備が止まれば、ビル全体が停電する。


 「スリーブ入れ」という言葉を思い出した。


 コンクリートを打つ前に、電線を通す穴——スリーブ——を所定の位置に設置する作業だ。単純に聞こえるが、これを忘れると取り返しがつかない。コンクリートが固まってしまえば、後から穴を開けるには「コア抜き」というダイヤモンドドリルでの作業が必要になる。費用は跳ね上がり、最悪の場合、構造体の鉄筋を切断して建物の強度を損なう。


 三年前、別の現場で経験したことがある。


 若い職人がスリーブを一箇所入れ忘れ、それに気づいたのはコンクリート打設の翌日だった。現場監督の怒鳴り声、元請けへの報告、やり直し作業の手配。若い職人は涙を浮かべながら「すみません」を繰り返していた。


 修平は彼を責めなかった。


 代わりにこう言った。


「図面を三回確認しろ。墨出しを二回確認しろ。それでも不安なら、俺に聞け。ミスは誰でもする。大事なのは、取り返しのつかないミスを防ぐことだ」


 取り返しのつかないミス。


 この仕事には、そういうものが多すぎる。


 チェックリストの最後の項目に署名を入れ、修平は分電盤室を出た。


 廊下の窓から外を見ると、入道雲がさらに近づいていた。風が強くなり、足場に張られた養生シートが激しくはためいている。


 ポケットの携帯電話が振動した。現場監督からのメッセージだ。


〈雷注意報発令。屋上作業中止。作業員は建物内に退避してください〉


 予想通りだ。修平は田中への連絡を入れようとして、ふと足を止めた。


 屋上の最終確認が終わっていない。


 避雷針の接地抵抗は測定済みだが、高圧キュービクルの換気口カバーを閉め忘れていたような気がする。雨が入れば、大事になりかねない。


 五分で済む。


 修平は階段を駆け上がった。


 屋上に出た瞬間、風が全身を叩いた。


 空は完全に暗くなり、積乱雲の底が不気味な緑がかった灰色に染まっている。遠くで稲光が走り、数秒遅れて低い雷鳴が響いた。


 キュービクルまで走る。換気口のカバーは、やはり開いたままだった。金属製のラッチを下ろし、確実にロックする。これで雨が入る心配はない。


 踵を返した瞬間——


 世界が白く燃えた。


 音はなかった。あるいは、音が聞こえないほどの衝撃だったのかもしれない。


 体が宙に浮く感覚。いや、倒れているのか。空が見える。紫色の残像が視界を覆っている。


 電気が体を駆け抜けた痕跡を、なぜか冷静に分析している自分がいた。


 雷撃電流。数万アンペア。人体の抵抗値は乾燥状態で千オーム程度。濡れていれば百オーム以下まで低下する。今日は湿度が高い。つまり——


 計算をする必要はなかった。


 答えは明白だ。


 視界の端に、コンクリートの屋上床が見えた。自分の手が見えた。焦げた跡。右手に持っていたはずの工具袋はどこかに吹き飛んでいる。


 痛みはない。それが逆に怖かった。神経が焼き切れたのだ。


 ——田中に、三階東側の確認を任せてきてよかった。


 なぜか、そんなことを思った。


 あの回路、やっぱり再施工した方がいいかもしれない。絶縁被覆が傷んでいるなら、時間が経てば数値はさらに下がる。一年後、二年後、どこかで漏電火災が起きる可能性がある。そうなれば——


 視界が暗くなっていく。


 走馬灯、という言葉が頭をよぎった。


 本当にそんなものが見えるのかと思ったが、見えたのは過去の現場だった。


 十年前、見習いとして初めて入った現場。先輩の手元につきながら、ケーブルの束を担いで階段を往復した日々。


 五年前、初めて職長を任された中規模マンション。若い衆をまとめ、工程を管理し、品質を確保することの難しさを学んだ。


 三年前、あのスリーブの入れ忘れ。泣いていた若い職人。


 一年前、妹の結婚式。電報を打つことしかできなかった。現場が佳境で、休みが取れなかったのだ。


 そして今日。


 田中に伝えそびれたことがある。


 絶縁抵抗の測定は、数値だけを見るな。トレンドを見ろ。今日の数値が基準内でも、一ヶ月後、一年後にどう変化するかを想像しろ。俺たちの仕事は、今日の安全だけじゃない。十年後の安全を作っているんだ。


 言いたかった。


 でも、もう——


 意識が遠のいていく。


 最後に見えたのは、紫がかった空だった。


 いや、違う。


 空の色が変わっている。


 青い。深い青。


 そしてその中に、無数の星が——


  ◇


 意識が戻ったとき、最初に感じたのは背中の冷たさだった。


 石畳。


 目を開けると、見知らぬ路地裏の天井——いや、建物の間から覗く狭い空が見えた。夜だ。だが、ビルの明かりはない。代わりに、月明かりと、どこか遠くで揺れる炎の光。


 体を起こそうとして、修平は自分の手を見た。


 細い。


 若い。


 三十二歳の、日焼けして節くれだった電工の手ではない。十代の、まだ何の労働も知らない手だ。


「……何だ、これは」


 声まで違った。高い。若い。


 服はボロボロの麻布のようなもので、素足には何も履いていない。周囲には粗末な木箱や、腐りかけた野菜くず。悪臭が鼻をついた。


 貧民街。


 その言葉が、なぜか自然と頭に浮かんだ。


 修平は立ち上がり、路地の壁に手をついた。目眩がする。情報が多すぎる。何が起きているのか理解できない。


 落雷で死んだ——はずだ。


 なのに、なぜ生きている。


 しかも、こんな場所で。こんな体で。


 パニックになりかけた思考を、修平は意識的に抑え込んだ。


 現状把握。


 これが最優先だ。


 どんな現場でも、まず状況を把握しなければ対策は立てられない。


 彼は深呼吸をして、周囲を見回した。


 路地の先に、通りらしきものが見える。人影が行き交い、何かを売る声が聞こえる。言葉は——不思議なことに、聞き取れた。日本語ではないはずなのに、意味が直接頭に入ってくる。


「おい、そこの小僧。邪魔だ、どけ」


 背後から声がかかり、修平は反射的に身を引いた。汚れた服を着た中年の男が、荷車を押して通り過ぎていく。


 小僧。


 この体は、本当に若いらしい。


 修平は自分の顔を触った。肌は滑らかで、髭はない。十代後半——いや、十七、八歳といったところか。


 異世界転生。


 そんな言葉が頭をよぎった。若い頃、同僚の田所がよく読んでいたライトノベルに出てきた概念だ。事故で死んだ人間が、別の世界に生まれ変わるという——


 馬鹿馬鹿しい。


 だが、目の前の現実を説明する他の理論がない。


 とにかく、情報を集めよう。


 修平は路地を出て、通りに向かった。


 そこで足が止まった。


 通りの角に、奇妙な構造物があった。


 金属製の管が壁から突き出し、その先端にガラスのような球体がついている。球体の中で、青白い光が明滅していた。不安定に、断続的に。


 照明器具だ。


 それはすぐにわかった。だが、電気で動いているようには見えない。配線がないのだ。代わりに、管の根元に青く光る小さな結晶がはめ込まれている。


 ——接続部が雑だ。


 その直感は、考えるより先に生まれた。


 管と結晶の接合部に、微かな隙間がある。そこから青白い光が漏れ出し、周囲の石壁をぼんやりと照らしている。光の漏れ。それはつまり——


 エネルギーの漏洩。


 電気工事で言うなら、漏電だ。


 修平は近づき、接合部を観察した。管の材質は銅に似ているが、少し違う。結晶から伸びる「何か」が管の中を通り、先端の球体まで運ばれているらしい。


 魔力。


 その単語が、これまた自然と頭に浮かんだ。まるで、この世界の常識を誰かが脳内に書き込んでいるかのように。


 この世界では、魔力というエネルギーが存在する。魔導石という結晶から魔力が生まれ、魔導管という管を通じて運ばれ、様々な器具を動かす。


 電気とは違う。


 だが、仕組みは似ている。


 そして、目の前の照明器具は——


「最悪の施工だな」


 思わず声に出ていた。


 接合部の処理が雑すぎる。魔力が漏れ出しているのは当然だ。現代日本なら、こんな工事を検査に通す業者はいない。


 いや、待て。


 これは「最悪」なのか。それとも、この世界では「普通」なのか。


 修平は通りを見回した。似たような照明器具が、あちこちに設置されている。どれもこれも、明滅し、漏光している。安定した光を放っているものは一つもない。


 これが「普通」なのだ。


 この世界では、魔導管の施工技術が極めて未熟なのだ。


「——なるほど」


 修平は静かに呟いた。


 まだ何もわからない。


 自分が何者で、なぜここにいて、これからどうすればいいのか。


 だが、一つだけ確信できることがある。


 俺にできることは、繋ぐことだけだ。


 電気であれ、魔力であれ。


 経路を最適化し、漏洩を防ぎ、安定した供給を実現する。


 それが、鷹野修平という人間の——たった一つの技能なのだから。


  ◇


 翌朝、修平は「冒険者ギルド」と呼ばれる施設を探し当てていた。


 どの異世界ファンタジーにも出てくる、ベタな設定だ。田所が貸してくれた本で読んだことがある。依頼を受けて報酬をもらうシステム。


 だが、修平の目的は冒険ではなかった。


 「登録」することで、この世界での身分証明を得ること。そして、この世界のシステムを理解すること。


 ギルドの受付は、意外にも親切だった。


「名前は?」


「修平。シュウ、と呼んでくれ」


「年齢は?」


「——十八」


 おそらく、そのくらいだろう。


「職業は?」


「職人見習いを希望する」


「ほお」


 受付の中年女性が、興味深そうに修平を見た。


「最近の若者はみんな、戦闘職や魔法職を目指すのにね。職人見習いとは珍しい」


「俺には、戦う才能はないから」


 それは本当だ。この体は若いが、特別な力は感じられない。魔法が使えるわけでも、剣技に優れているわけでもない。


 いや——一つだけ、何かがある。


 意識を集中すると、視界の隅に淡い光の文字が浮かぶ。


〈スキル:【配線術】〉


 それだけだ。


 レベルとか、ステータスとかいうものは見えるのだが、ほとんどが「標準」という表記で埋まっている。攻撃力、魔力、敏捷性、耐久力——全て標準。平均的な人間と変わらないらしい。


 唯一の例外が、このスキル。


 【配線術】。


 魔力を通す経路を構築する能力。


 試しに、カウンターに置かれた魔導灯に手をかざしてみた。


 見える。


 魔力の流れが、青白い糸のように視えるのだ。


 魔導石から発せられた魔力が、管の中を流れ、球体に到達し、光を生み出している。だが、途中で多くの魔力が漏れ出し、効率が悪い。


 これを最適化できる。


 そう確信した瞬間、スキルが告げた。


〈経路効率:現在42%。最適化後:推定78%〉


 倍近くだ。


 つまり、今の半分以下の魔導石で、同じ明るさを維持できる。


 あるいは、同じ魔導石で、倍近い明るさを得られる。


 これは——


「どうした、若者。ぼうっとして」


 受付の女性の声で、修平は我に返った。


「いや、何でもない」


「職人見習いなら、王都の工房を紹介できるよ。最近は人手不足でね、下働きなら誰でも雇ってもらえる」


「下働き?」


「資材を運んだり、掃除をしたり。まあ、地味な仕事さ。若いのにそんな仕事でいいのかい?」


 修平は小さく笑った。


「地味な仕事は嫌いじゃない」


 むしろ、得意だ。


 見えないところで、確実に繋ぐ。


 それが俺の仕事なのだから。


  ◇


 一週間後、修平は王都最大の魔導工房で働き始めた。


 「下働き」の仕事は、予想通り地味だった。


 朝は誰よりも早く起き、工房の床を掃除する。資材が届けば荷下ろしを手伝い、職人たちが作業を始めれば、手元につく。必要な工具を渡し、不要になった端材を片付け、時には高所作業の梯子を支える。


 誰にも見えない仕事。


 誰にも評価されない仕事。


 だが、修平はそれを黙々とこなした。


 そして、観察を続けた。


 魔導管の施工方法。


 接合部の処理技術。


 使用されている材料の特性。


 全てが、現代日本の電気工事と比較して、驚くほど原始的だった。


 ——図面がない。


 これが最も衝撃的だった。


 職人たちは全て、口伝と経験で施工している。「この長さでここに繋げ」という曖昧な指示で、各人が勝手に配管を引いている。工房ごと、いや、職人ごとにやり方が違う。


 結果として、魔導管の配置は滅茶苦茶だ。必要以上に長い経路、無駄な曲がり、干渉する管同士。効率が悪いだけでなく、事故の原因にもなる。


 実際、修平が工房で働き始めてから三日目に、事故が起きた。


 魔導管の接合部が外れ、大量の魔力が一気に放出された。近くにいた職人が火傷を負い、周囲の器具がいくつか焼損した。


「また事故か」


 工房長が苦々しげに呟くのを、修平は端で聞いていた。


「最近、魔導石の品質が落ちているな」


「ええ、北部の鉱山が魔獣に襲われてから、良質な石が入りにくくなっています」


 いや、違う。


 修平は内心で否定した。


 魔導石の問題じゃない。施工の問題だ。


 接合部の処理が雑すぎる。魔力が通る経路に歪みがある。負荷が一点に集中している。こんな状態では、どんな高品質の魔導石を使っても事故は起きる。


 だが、それを口に出すことはしなかった。


 まだ、時期ではない。


 下働きの若造が何を言っても、誰も聞かない。


 まずは実績を作る必要がある。


 その日の夜、工房が閉まった後、修平は一人で倉庫に残った。


 照明用の魔導灯が明滅している。職人たちは「魔導石の寿命だ」と放置しているものだ。


 修平は接合部を調べた。


 やはり、接触不良だ。


 魔力を通す経路に微細な隙間がある。ここから魔力が漏れ出し、効率が落ち、明滅が起きている。


 修平は【配線術】のスキルを発動した。


 青白い糸のような魔力の流れが、視界に浮かぶ。


 そして、最適な経路が——


 見えた。


 彼は工具袋から、この一週間で集めておいた道具を取り出した。細い銅線。絶縁効果のある樹脂片。先輩職人に「捨てるから持っていけ」と言われた端材だ。


 接合部を一度外し、接触面を磨く。銅線で補強し、樹脂片で隙間を埋める。


 現代日本なら、専用のコネクタを使うところだ。だが、この世界にはそんなものはない。手持ちの材料で、できる限りのことをするしかない。


 三十分後、修平は作業を終えた。


 魔導灯を見上げる。


 明滅が止まっていた。


 安定した青白い光が、倉庫を照らしている。


「——よし」


 誰もいない倉庫で、修平は小さく呟いた。


 これでいい。


 誰も気づかなくていい。


 見えないところで、確実に繋ぐ。


 それが俺の仕事だ。


 翌朝、職人たちは倉庫の照明が安定していることに気づいた。だが、誰もその理由を考えようとはしなかった。


「おっ、今日は調子いいな」


「たまにはあるんだよ、こういうことも」


 それだけだ。


 修平は黙って床を掃いていた。


 その様子を、工房の二階窓から見つめる人影があったことに、彼は気づいていなかった。


 工房長の令嬢、エリーゼ。


 二十代前半の若き魔導理論家は、眼下の若い下働きを興味深げに見つめていた。


 ——あの男、何をした。


 昨夜、彼女は偶然、倉庫で作業する修平の姿を目撃していた。


 下働きが夜中に何かをしている。普通なら、窃盗を疑うところだ。だが、彼が持ち出したのは、誰も欲しがらない端材だけ。そして、彼が触った魔導灯は——


 今朝、完璧に動作している。


 何かがおかしい。


 そして、何かが面白い。


 エリーゼは窓を離れ、書棚から古い文献を取り出した。魔導管に関する理論書だ。このこの世界の魔導技術は、三百年前から基本的に変わっていない。進歩がない。なぜか。


 彼女はずっと、その疑問を抱えていた。


 そして今、その答えに近づけるかもしれない。


 あの下働きの中に。

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