2.再会?

目が覚めた瞬間、浅井 涼一は立っていた。

しかし、そこは自宅の寝室ではなかった。


見慣れた、冬の朝の田舎のバス停。

空気は冷たく、乾いた風が頬をかすめる。

そして、目の前には——美都 陽菜がバスを待っていた。


その数歩後ろに立っている。

夢なのか——頭が混乱して、体が硬直する。


「……え、なんだこれ……」


足元の感触、制服の生地、整髪料も使わない長めに伸びた髪に触れる風。

すべてが、あのころの感覚。

四十歳としての記憶はそのままなのに、目の前の景色はあまりにも高校時代そのまま。


遠くからバスのエンジン音が近づく。

陽菜はそそくさとバスに乗り込んでいく。


その後を流れるように追って乗車する。

そして、ふとバスのガラス越しに映った自分の姿を見て、息が止まった。

制服に身を包んだ自分——高校生の浅井 涼一が、そこにいたのだ。


「……な、どうなってる……?」


わけがわからないまま、心臓の高鳴りと共に、涼一は通い慣れた学校への道を歩き出した。

目の前の世界は確かにあの頃のまま。

だが、意識の奥底には、四十歳としての自分がしっかり存在していた——。


——学校。

教室のざわめきに圧倒されながら、浅井涼一は机の前で立ち尽くしていた。

制服、そして周りの声——すべてが懐かしいはずなのに、どこか現実味がなかった。


「……いや、落ち着け。冷静に考えろ……」


頭の中は四十歳、身体は多分十六歳。

どこか現実感が薄い中、しかし考えははっきりしていた。


——話さなきゃ、陽菜の未来を変えるために。

そんな気持ちといったところであろう。


涼一は、席の間を通り、陽菜の前まで歩み寄る。


「あの……陽菜……さん? ちょっと、話があるんだけど……いいかな」

自分から話しかけたのは小学校以来だったか、名前の呼び方にぎこちなさを覚える。


ざわめきは小さく止まった。

友達の視線がちらりと向く。


心臓は特別高鳴っていない。

ただ、淡々と、やるべきこととして口を開いただけだ。


陽菜は少し眉をひそめ、警戒するように立ち上がる。

「え、なに……?」

でも、ほんの少しだけ動揺しているような、そんな表情が見えた。


涼一は小さく首を振って、廊下へと誘導する。

教室のざわめきが、扉一枚隔てただけで少し遠くなる。

踊り場で立ち止まった陽菜は、少し顔を背けて言った。


「……それで?」


声は短く、様子見の色が濃い。

涼一は一度、言葉を探してから口を開いた。


「陽菜……さん」


呼び方がぎこちない。

それだけで、彼女が少しだけ身構えるのが分かった。


「実は俺、その……中身が今の俺じゃないっていうか」


何を言っているんだ、と自分でも思う。

けれど止められない。


「二十年後くらいの俺に、なってしまってるっていうか……」


一拍。

二拍。


陽菜が、ゆっくりこちらに顔を向ける。


「……は?」


眉がわずかに寄る。

疑問符だけで出来た顔だった。


涼一は、逃げ道を探さずに続ける。


「つまり、その……

 中身が、四十歳のおっさんなんだ」


沈黙。


それから、陽菜は小さく笑った。

反射的に出たような、間を埋めるための笑い。


「……あ、そ、そうなんだ……」


声は軽い。

でも、一歩だけ距離が増える。


「ごめん」


言いながら、視線を逸らす。


「もう、行くね……」


「あ、ちょっと!」


思わず伸ばした声に、陽菜は振り返らない。


「授業始まるよ」


それだけ言って、教室の方へ戻っていく。


涼一は、その背中を見送ったまま立ち尽くす。


——だよな。


信じるとか、理解するとか、

そういう段階ですらない。


廊下の向こうで、また日常の音が戻ってくる。

それでも、何かが確実にズレた感覚だけが残っていた。


昼休み。

涼一は鞄の中を覗き、そっと閉めた。

——弁当、忘れてきてる。


正確には、忘れてきたのは「十六歳のほうの自分」なのだが。


財布を開く。

小銭が数枚と、折り目のついた千円札。


「……パンとコーヒーだな」


少ない小遣いだった過去の自分のためなのか、家庭内での節約思考がそうさせたのかは定かではない。

さっきの件もあって、教室に居座る気にはなれず、購買でパンと缶コーヒーを買うと、校舎裏のベンチに腰を下ろす。


誰もいない。

風だけが通り抜ける。


パンを半分ほど食べたところで、

ふと空を見上げた。


青空だった。

雲も少ない、どうでもいいくらい普通の昼。


その拍子に、思い出してしまう。


——葬式の日。


あの日も、天気は悪くなかった。


式場で、陽菜の母親が泣き崩れていた。

声というより、体全体で崩れるような泣き方だった。


知らせを聞いたのは東京の大学に進学した年の夏だった。


——陽菜が交通事故で亡くなった。


告別式のあと、家の前で立ち尽くしていた男。

陽菜の彼氏だと、後から聞いた。


玄関先で、周囲も気にせず号泣していた。

あのときの顔は、今でも妙に鮮明だ。


事故の詳細は、もっと後になってから知った。

原形をとどめていなかったこと。

家族には、できる限り整えた姿で対面させたこと。


知りたくなかった、というほどでもない。

ただ、知ってしまった、という感覚だった。


涼一はパンの袋を畳み、膝の上に置く。


——俺は、何をやっているんだ。


二十年も経って。

今さらこんな場所で、

こんな時間に、こんな記憶を引っ張り出している。


ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


陽菜が、まだ生きている、この時間。


たぶん——


涼一は立ち上がり、

空になったパン袋をゴミ箱に捨てた。

午後の授業が、もうすぐ始まる。



——帰り道。


空気は澄んでいる。

夕方のバス通りは静かで、エンジン音だけが間延びして響いていた。


数歩前を歩く陽菜。

距離は、覚えがありすぎるほど、同じ。


——またか。


胸の奥が、じわじわと嫌な熱を持つ。

この距離。

声をかけない自分。

何もしないまま終わる流れ。


神社の前を通り過ぎようとしていたとき、

考える前に、体が動いていた。


涼一は走った。


「えっ——」


陽菜の前に回り込む形で、急停止する。

陽菜は驚いて足を止め、目を見開く。


「なに……?」


警戒と困惑が混じった声。


涼一は一度、息を吸って、吐く。

もう順序も前置きもどうでもよかった。


「朝の続きだけど」


一拍も置かずに言う。


「単刀直入に言うけど」

「高校卒業したあと、君は事故で死ぬ」


完全に空気が止まる。


「……はぁぁ?」


陽菜の声が一段低くなる。


「ちょっと待って。

なにそれ。普通に怖いんだけど」


一歩、後ずさる。


涼一はそれを追わない。

でも、視線だけは逸らさない。


「頭おかしいやつだと思ってもらってもいい」


早口になる。


「明日から無視してくれてもいいし、

クラスでネタにしてもいい」


陽菜の眉が、完全に寄る。


「でも——」


言葉が、少しだけ詰まる。


「このことは、忘れないでほしい」


声が落ちる。

拳が、知らないうちに握られていた。


「……頼むから」


最後は、ほとんど願いだった。


沈黙。


風が吹いて、神社の木が鳴る。


陽菜はしばらく黙ったまま、涼一を見る。

怖がっているのか。

引いているのか。

それでも、完全に切り捨てる目ではない。


「……浅井さ」


ゆっくり口を開く。


「それ、本気で言ってる?」


「一応、本気のつもり……なんだけどな」


状況を客観視した途端、急に恥ずかしさが込み上げて、言葉の調子が崩れる。


陽菜はため息をつく。


「……今日変だよ」


そう言いながら、手元の携帯電話をいじりつつ続ける。


「正直、まったく信じてないよ?」


「……それでいい」


少し間。


「でも……」


「そこまで必死な涼ちゃん、初めて見たかも」


緊張が少しほどけたように陽菜は笑った。

いや——この空気に耐えきれず彼女の方が折れたようにも見えなくない。


ただそれよりも、幼い頃呼ばれていた呼び方に、胸の奥がざわついた。

そんな感覚を覚える年じゃないはずなのに。


「……じゃあね」


陽菜はそう言って、横を通り過ぎる。


数歩進んで、立ち止まる。


「まぁ……」


小さく息を吐いて。


「未来から来たおじさんの予言?ってことで覚えとく」


それだけ残して、歩いていった。


涼一はその背中を見送りながら、しばらくその場に立っていた。


信じてもらえたわけじゃない。

何かが解決したわけでもない。


ただ、今日はよくしゃべったな、と思った。

陽菜と過ごした十数年を会話数で割ったら、たぶん五年分くらいは、今日まとめて喋ってしまった。


歩き出してから、少し遅れて気づく。

胸の奥が、わずかに軽い。


理由はわからないし、深く考える気力もない。

それでも、さっきよりは、足取りが重くなかった。

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