作業着の彼
えびもも
第1話 「いつもの日々、そして出会い」
隣の家では、数日前から修理が続いていた。
どうやら子供が新たに生まれるらしく
将来のことを思って、大規模なリフォームをするらしい。
外壁には足場が組まれ、朝になると金属が触れ合う乾いた音がする。
古い住宅街では珍しくない光景だ。
私はそれを、台所の窓越しに眺めるだけだった。
この家に一人で住むようになって、もう何年も経つ。
夫は6年前に事故で帰らぬ人となった。
病気ならばじっくりと別れの言葉や、
最大限できる感謝などを伝える時間が残っていたのかもしれないが、
趣味の登山の事故であまりにも突然その別れは訪れた。
唐突な別れもあってか
あまり落ち込む時間は長くなかったように思える。
子供は授かっていなかったので
この家にも一人で住んでもうしばらくになる。
以前よりも感覚的に静かで、
ゆっくりとした時間の足音が聞こえるようになった。
いまさら誰かの生活音が近くにあることに、特別な感情は湧かない。
ただ、作業員たちの声が聞こえると、時間が外に流れているのを思い出すだけだった。
昼下がり、洗濯物を取り込もうと立ち上がったときだった。
外で、普段とは違う音がした。
音は、思っていたより大きかった。
昼下がりの静けさが、一瞬で割れた。
粉塵が舞い、空気がざらつく。
私は反射的に窓から身を引いたが、心臓は不思議と早鐘を打たなかった。
驚きよりも、確認に近い感覚だった。
外に出ると、隣家の足場のそばに人が集まっていた。
若い作業員が一人、顔色を変えてこちらを見ている。
ヘルメットを外し、汗を拭う仕草がやけにぎこちない。
「すみません!!」
彼は深く頭を下げた。
言い訳を挟むでもなく、原因を説明するでもなく、ただそれだけを言った。
見た目は20代後半だろうか。
汚れた汗ばんだ厚手の作業着でもわかる逞しい肉体。
うろたえる表情だが、爽やかさが突き抜けて
にじみ出ている。
作業着の胸の刺しゅうには
"水瀬"と書いてある。
(後にわかるが読み方は"みなせ"のようだ)
「本当に申し訳ありませんっ!」
改めて水瀬が頭を下げる。
ふと、目を音の現場にむけると
我が家の外壁の一部が、思ったより広く崩れていた。
古い家だ。補修の跡も多い。
これまで何度も手を入れてきたはずなのに、こういう時だけ、あっさりと壊れる。
「こちらの不注意です。修理、させてください」
淡々とした声だった。若いが、軽くはない。
私は壁を一度見てから、彼の方を見る。
「怪我は?」
自分の口からその言葉が出たことに、少し驚いた。
彼は一瞬きょとんとして、それから首を振った。
「いえ、大丈夫です」
それ以上、何も言わなかった。
怒られないことに戸惑っている様子が、逆に伝わってくる。
水瀬は謝罪を交えながら
原因と作業内容と修繕期間を簡潔に説明した。
材料の手配、下地の補強、表面の仕上げ。
専門的な言葉は使わず、必要なことだけを選んで話す。
「五日あれば、終わります」
五日。
期限がはっきりしていることに、なぜか安心した。
「気にしなくていいので、お手すきの際に修繕お願いします」
そう答えると、彼はまた深く頭を下げた。
「念のため、中も確認させてもらっていいですか」
私は頷き、玄関を開けた。
久しぶりに他人を家に入れる気がした。
家の中は静かだった。
生活の跡はあるが、人の気配が薄い。
音を吸い込んでしまうような空間だ。
水瀬は靴を揃え、視線を必要以上に泳がせない。
壁や天井、床のきしみを一つひとつ確かめていく。
その動きが、無駄に感じられない。
「……長く、住んでます?」
問いかけは控えめだった。
私は一瞬だけ考えてから、「ええ」と答えた。
それ以上は付け足さなかった。
水瀬も、それ以上聞かなかった。
外に戻り、崩れた部分を見上げる。
陽に照らされて、内部の古い木材が露出している。
隠れていたものが、思いがけず外に出てしまった感じがした。
「全部は、元通りにならないかもしれません」
水瀬はそう言った。
言い切りでも、予防線でもない。
事実としての声音だった。
私は少し考えてから、首を横に振る。
「それでいいです」
修理は翌日から始まる。
五日間だけ、家に人の出入りが生まれる。
玄関を閉めたあと、私は壁の向こうの気配に耳を澄ませた。
何かが始まったという感覚はなかった。
ただ、止まっていた時間に、ほんの小さなひびが入った気がした。
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