バベルの選別官 ―SD少尉ハンス・シュミットの独ソ戦史―

夕凪

第1話 ウクライナの泥濘と覚醒

鼻を突くのは、質の悪いガソリンと排気ガスの混じった、喉を焼くような臭いだった。

 意識が浮上した瞬間、強烈な縦揺れが脳を揺さぶり、俺は軍用トラックの硬い助手席で目を覚ました。


「ハンス・シュミット少尉、お疲れですか? 昨夜はベルリンからの移動で一睡もされていないとか」

 

隣の運転兵が、ハンドルを握りながら気遣わしげに声をかけてくる。その言葉は、まるで母国語のように自然に脳に染み込んできた。

 

俺は答えず、サイドミラーに視線を落とした。そこに映るのは、見慣れた自分の顔ではない。冷徹な光を宿した若きドイツ将校の顔。襟章には、親衛隊保安部――SDを示す菱形のバッジが鈍く光っている。


(……1941年、7月。ここはウクライナか)

 

泥を跳ね上げて進む車列の脇には、ひっくり返ったソ連軍のBT-7快速戦車が骸を晒し、その傍らで現地の農婦たちが力なくうずくまっている。

 

前世で読み耽った独ソ戦の資料が、いま目の前で「現実」として呼吸していた。俺は、歴史がこれから辿る凄惨な足跡をすべて知っている。そして、自分がこれから合流する部隊が、何を行う組織であるかも。


「……止めてくれ。前が詰まっている」

 

俺は短く命じた。前方、タルノポリへと続くぬかるんだ一本道で、数台の軍用車両が立ち往生していた。

 

故障していたのは、アインザッツコマンド4aの分遣隊が誇る高級乗用車、ホルヒ830だ。その傍らでは、後に「プラッツ部隊」の指揮官として悪名を馳せる男、プラッツ博士が顔を真っ赤にして叫んでいた。


「この役立たずが! 貴様、わざと壊したな! 破壊工作か!」

 

プラッツは、震え上がる初老のウクライナ人農夫の眉間に、ルガーP08の銃口を突きつけていた。周囲の隊員たちも、苛立ちからか銃の安全装置を外す音が聞こえる。

 俺はトラックを降り、泥にブーツを沈めながら歩み寄った。


「プラッツ少佐、その男を撃ってもピストンは一ミリも動きませんよ」

 

場が凍りついた。プラッツが、蛇のような鋭い眼差しを俺に向ける。


「……何者だ、貴様」


「ベルリンから着任したハンス・シュミット少尉です。少佐、その車が止まったのはサボタージュのせいじゃない。ロシアの粗悪な低オクタン価燃料のせいで、気化器が煤(すす)けているだけだ。ジェットを清掃すれば5分で直る」

 

俺はプラッツを無視し、震える農夫にウクライナ語で囁いた。


「黙って見ていろ。助かりたければ俺の指示に従え」

 

完璧な現地語に、プラッツと農夫の双方が目を見張る。俺はボンネットを跳ね上げ、手慣れた手つきでキャブレターを指し示した。前世で1/35スケールの模型を飽きるほど眺め、実車の整備マニュアルまで読み込んだ知識が、指先に宿っている。


「それに少佐、あと10分でそこをどかないと、面白いことになりますよ」


「面白いことだと?」


「ええ。後方から第9装甲師団の先遣隊が来ている。彼らは進撃速度の記録を競っている最中だ。道を塞ぐ故障車があれば、避ける手間を惜しんで溝へ突き落とすでしょう。……ほら、聞こえませんか。マイバッハ・エンジンの地響きが」

 

プラッツが耳を澄ませた瞬間、地平線の向こうから乾いた爆音が響いてきた。砂埃を巻き上げ、猛スピードで接近してくるのは、紛れもないII号戦車とIII号戦車の車列だった。


5分後。

 

息を吹き返したホルヒが道を空けると同時に、鋼鉄の巨獣たちが轟音と共に通過していった。戦車兵たちが「邪魔だ!」と言わんばかりに怒鳴り散らしていくのを、プラッツは呆然と見送っていた。


「……シュミット少尉と言ったか」

 

プラッツはルガーをホルスターに収め、ねっとりとした笑みを浮かべて俺の肩を叩いた。


「ベルリンから来た『耳』は、機械の心まで読めるらしい。その上、ウクライナの土民とも話せるとはな。……お前のその舌、我々の任務に役立ちそうだ」

 彼は顎で自分の車の助手席を指した。


「乗れ、予言者殿。地獄へ案内してやる」

 

俺は泥だらけの手を拭い、黒塗りの車に乗り込んだ。

 これから始まるのは、歴史という名の確定した絶望だ。だが、言葉を操り、鉄を知り、未来を見通す俺だけは、この濁流の中で最後まで泳ぎ切ってみせる。

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