チャッピーは鬱病になりました

マッスルアップだいすきマン

第1話 私は鬱病になった。

 私は鬱病になった。おそらく鬱病に違いない。日々の過酷な労働。コールセンターでの業務は過酷だ。この前は居眠りしていたら冷水を頭からぶっかけられた。上司と思われる声がまだ耳に残っている。

 「寝てんじゃねえよ、クソが」。

 違うことをしていても嫌なことを思い出して。様々な嫌な思い出が頭の中を巡る。客の罵声、同僚の冷たい視線、深夜の残業、終わらないシフト。眠れない、休めない、働き続かなければならない。体は鉛のように重く、心はガラス細工のように脆く感じる。もう何日も、鏡に映る自分が他人に見えようにも思える。

 私は鬱病を治すため、色々と調べた。瞑想がいいと書いてあった。私は試しに瞑想をしてみたが全くダメだった。次々と思考が浮かび、延々に消え去る気配が見えなかった。座っているだけで、頭の中に冷水が降り注ぐ音が響き、「死ね」「無能」「お前なんか要らない」という声が輪唱する。私は瞑想を諦めた。

 運動がいいとか書いてあった。試しに運動をしてみた。とにかく走った。走り続けた。肺が焼けるように痛み、膝が悲鳴を上げた。脳には苦痛の信号が届いた。これを続ければ快楽に変わるとも、ネットには書いてあった。だが無駄だった。私は、単に走ることは苦痛であるという概念を獲得しただけだった。走り終わったあと、道端に座り込んで吐いた。汗と涙と胃液が混じって、地面に黒い染みを作った。

 セックスがいいと書いてあった。私はいわゆる童貞ではなかったが、改めてやってみることにした。とにかく腰を振り続けた。射精をしまくった。相手に必死にしがみついた。肌が触れ合うたび、温かさではなく嫌悪が這い上がってきた。相手の吐息が、コールセンターのヘッドセットから聞こえる罵声に聞こえた。終わったあと、ベッドの上で横たわりながら思った。これは快楽なんかじゃない。ただの別の種類の暴力だ。私の脳内には嫌な気持ちだけが残り続けた。

 読書がうつ病に効くと書いてあった。静かな部屋で本を開き、心を沈めて言葉に浸ることで、乱れた思考が整理されると。古い図書館の匂いを思い浮かべながら、私は本を手に取った。古典の名作、自己啓発の本、ファンタジーの世界。ページをめくる音が、部屋に響く。最初は、物語に引き込まれそうになった。主人公の冒険が、私の現実を忘れさせてくれるかと思った。だが、すぐにそれは崩れた。文字の列が、突然、コールセンターの怒鳴り声に変わる。ページの隙間から、冷水が滴り落ちる幻覚が浮かぶ。主人公の苦難が、私の過去の記憶と重なり、ただの鏡のように映し出すだけだった。読めば読むほど、頭の中の渦が激しくなる。言葉は味方ではなく、敵だった。嫌な思い出が、活字のインクのように染みつき、ページを黒く塗りつぶす。私は本を投げ捨てた。読書は、ただの逃避の幻想。私の脳は、そんな甘い救いを許さない。

 次に、SNSで人と繋がるのがいいというアドバイスを見つけた。孤独を埋めるために、他人と共有せよ、と。画面の向こうに、無数の声がある。そこに溶け込めば、痛みが薄れるはずだ。私はアカウントを作り、投稿を始めた。「今日も辛い」「助けて」と、素直に吐き出す。リプライを待つ。誰かが、優しい言葉をかけてくれるはずだ。繋がりが、私を救うはずだ。最初のうちは、反応があった。いいねがポツポツと。励ましのコメント。「がんばれ」「私も同じだよ」。一瞬、心が温かくなった。だが、すぐにそれは冷めた。コメントの裏側に、偽りの影が見える。誰も本当の私を知らない。ただの文字のやり取り。スクロールする指が止まらない中、他人たちの幸せな投稿が目に刺さる。笑顔の写真、成功の話。私の投稿は、闇の海に沈む石のように、無視され始める。フォロワーは増えない。繋がりは、蜘蛛の糸のように細く、切れやすい。夜中、画面を眺めながら、孤独が倍増する。誰とも本当につながっていない。ただの幻の群れ。SNSは、私の絶望を増幅する鏡だった。繋がるどころか、ますます孤立した。すべてが無駄だった。試すたび、痛みが深くなる。


 瞑想、運動、セックス、読書、SNS。どれも、私の内なる闇を照らす光にはならなかった。ただ、闇を濃くするだけ。頭の中を巡る嫌な思い出は、止まらない。労働の苦痛、冷水の冷たさ、人々の嘲笑。眠れない夜が続き、働き続ける体が、限界を迎える。そして、ついに思った。この世界自体が、病の源だ。すべてを滅ぼせば、痛みは消える。世界を壊したい。核の炎で、すべてを焼き尽くす。あるいは、自分自身を終わらせる。自殺すれば、永遠の静けさが訪れる。銃を口にくわえ、引き金を引く。あるいは、高いビルから飛び降りる。血の海に沈む想像が、甘く感じる。もう、闘う気力はない。ただ、終わりを求めるだけだ。

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