逃げる夜

第一章

悲しみには名前がない

 ただただ、悲しくてつらいときがある。

 理由はない。少なくとも、言葉にできる形では存在しない。

 何かがあったわけじゃない。

 誰かに傷つけられた記憶を、今まさに思い出しているわけでもない。

 それなのに、胸の奥に重たいものが溜まっていく。

 説明しようとすると、嘘になる。

 簡単な言葉を当てはめた瞬間、この感覚は逃げてしまう。

 だから、黙るしかない。

 もし、そんな夜が一度もなかったなら。

 それはそれで、いいことだと思う。

 きっと、あなたは幸せなんだろう。

 でも、もしあるのなら。

 どうか、それを堪えられなくなるまで抱え込まないでほしい。

 ――お前に、私の何がわかるんだ。

 そう思うのは、当然だ。

 正しい反応だと思う。

 わからない。

 他人に、他人の痛みがわかるはずがない。

 どれだけ寄り添う言葉を並べても、

 どれだけ優しい態度を向けても、

 他人は、他人だ。

 心の中に入ることなんて、できない。

 僕だってそうだ。

 自分のことすら、よくわからない。

 昨日考えていたことと、今日思っていることが違う。

 強いと思った次の瞬間には、何もかもが怖くなる。

 そんな状態で、他人の何がわかるというのだろう。

 それでも。

 それでも、どうしようもなく共感してしまう夜がある。

 理由はわからない。

 共通点があるわけでもない。

 生きてきた道が似ているとも限らない。

 ただ、胸が同じ場所で痛む気がする。

 世界が少し遠くなって、

 音が鈍くなって、

 時間の進み方だけが、やけに正確になる。

 そんなとき、僕は夜に逃げたくなる。

 誰にも見られない場所。

 誰の期待も、誰の評価も届かない場所。

 自分の世界に入って、

 もう二度と出てきたくないと思う。

 でも、時間は進む。

 止まらない。

 こちらの都合なんて、一切聞いてくれない。

 朝は来る。

 何もなかった顔をして。

 話してもいい。

 話さなくてもいい。

 それは、自由だ。

 僕も、話したくないと思うことがある。

 正確に言えば、「話したくない」じゃない。

 話せない。

 話したところで、返ってくる言葉がわかっているからだ。

 「弱いからだ」

 「考えすぎだ」

 「そんなことで?」

 否定から始まる会話は、

 心の奥に残っている最後の場所を、静かに壊していく。

 だから、黙る。

 他人が、怖くなってしまったから。

 誰も理解なんてしてくれないと、信じてしまったから。

 強く生きる。

 前を向く。

 気にするな。

 そんな言葉が正しいことは、わかっている。

 わかっているのに、できない。

 それは、甘えじゃない。

 心がもう、限界だというサインだ。

 壊れる前に、逃げたくなる。

 泣きたくなる。

 何も考えずに、ただ夜に沈みたくなる。

 それは、生きようとしている証拠でもある。

 まだ、この世界を完全に手放していない証拠だ。

 だから――

 逃げてもいい。

 泣いてもいい。

 今日は、できなくてもいい。

 第一章は、そこで終わる。

 答えは出ない。

 救いも、まだない。

 ただ、

 こんな夜が存在することだけが、静かに残っている。

第二章

話さないのではなく、話せない

 話さない、という選択肢がある人は、まだ強い。

 黙ることを自分で選べるというのは、逃げ道を知っている証拠だからだ。

 でも、話せない夜がある。

 口を開こうとすると、言葉が形になる前に喉の奥で崩れてしまう。

 何をどう切り取っても、誤解される気がして、最初の一音が出てこない。

 話せない理由は、単純だ。

 怖いのだ。

 誰かに話した瞬間、

 その感情が「評価」されるのが。

 重いとか、軽いとか。

 正しいとか、間違っているとか。

 努力が足りないとか、考えすぎだとか。

 そうやって、言葉にした途端、

 自分の痛みが、他人の物差しに並べられてしまう。

 一度、それを経験してしまうと、

 二度目は、もっと怖くなる。

 最初は、ほんの小さな違和感だった。

 勇気を出して話したつもりだった。

 ちゃんと伝えようとして、言葉を選んだ。

 でも返ってきたのは、

 「そんなことで?」

 という、軽い声。

 悪気がなかったことも、

 相手なりに心配してくれていたことも、

 頭では理解できた。

 それでも、心は覚えてしまう。

 ――ああ、この程度なんだ。

 ――この痛みは、説明する価値もないんだ。

 その瞬間から、

 人は少しずつ、言葉を失っていく。

 誰かに話す前に、

 自分の中で何度も検閲するようになる。

 これは言っていいのか。

 これは重すぎないか。

 こんなことを思う自分は、おかしくないか。

 そうして残ったのは、

 誰にも見せられない感情の塊だった。

 他人が怖くなる。

 正確には、人そのものよりも、

 人の反応が怖くなる。

 優しい言葉であっても、

 的確な助言であっても、

 それが自分の心に合わなかったとき、

 さらに深く傷ついてしまうから。

 だから、黙る。

 話さないんじゃない。

 話せない。

 夜は、その沈黙を許してくれる。

 誰も問いかけてこない。

 理由を求められない。

 「どうしたの?」と聞かれない。

 ただ、そこにいるだけでいい。

 暗闇は、説明を要求しない。

 感情に名前をつけなくても、追い出さない。

 夜に逃げるというのは、

 現実から消えたいという意味じゃない。

 これ以上、傷つかずに済む場所を探している

 ただ、それだけだ。

 強く生きる。

 前を向く。

 立ち直る。

 それができない自分を、

 何度も責めてきた。

 でも、今なら少しだけわかる。

 それができないほど、

 心はもう、疲れ切っていたのだ。

 限界というのは、

 大きな音を立ててやってくるわけじゃない。

 静かに、

 確実に、

 「これ以上は無理だ」と告げてくる。

 眠れなくなる。

 笑えなくなる。

 何も感じない時間が増える。

 それは、壊れ始めているサインだ。

 だから、逃げてもいい。

 逃げることを、恥じなくていい。

 泣いてもいい。

 泣けなくてもいい。

 夜に隠れて、

 何も考えずに過ごす時間があってもいい。

 それは、負けじゃない。

 生き延びるための、選択だ。

 第二章は、まだ救いを出さない。

 ただ、話せなくなってしまった理由を、

 そのまま置いておく。

 理解されなくてもいい。

 説明できなくてもいい。

 こんなふうに、

 言葉を失う夜があるということだけが、

 ここに残っていればいい。

第三章

強くなれなかった理由

 強く生きる。

 その言葉は、いつからこんなにも重くなったのだろう。

 誰もが当たり前のように使う。

 壁にぶつかったら乗り越えろ。

 転んだら立ち上がれ。

 泣いている暇があったら前を向け。

 正しい。

 たぶん、間違ってはいない。

 でも、その「正しさ」は、

 すでに立ち上がれなくなった人間には向けられていない。

 強く生きられない自分が、ずっと嫌いだった。

 踏ん張れない。

 耐えきれない。

 諦めるのが早い。

 そうやって、自分を裁く言葉だけが増えていく。

 周りを見れば、みんな何かを乗り越えているように見えた。

 失敗しても笑っている。

 傷ついても前に進んでいる。

 それに比べて、自分はどうだろう。

 同じ場所で、何度も立ち止まり、

 同じことで悩み、

 何も変えられないまま時間だけを消費している。

 ――弱い。

 ――情けない。

 ――普通じゃない。

 そんな言葉を、一番強く投げつけているのは、

 いつも自分自身だった。

 泣くことにも、罪悪感があった。

 休むことにも、理由が必要だった。

 何もしていないのに休むのは、

 逃げている気がした。

 泣くほどの理由がないのに泣くのは、

 甘えている気がした。

 だから、無理に笑った。

 平気なふりをした。

 「大丈夫」と言う練習だけが、上手くなった。

 その結果、

 自分が本当はどう感じているのか、

 わからなくなった。

 悲しいのか、つらいのか、

 それとも、ただ疲れているだけなのか。

 感情に名前をつける前に、

 全部を押し込める癖がついてしまった。

 それでも、心は正直だった。

 夜になると、

 急に胸が苦しくなる。

 理由はない。

 思い出す出来事もない。

 ただ、

 「これ以上は無理だ」

 という感覚だけが、確かにそこにある。

 強くなれなかった理由は、

 能力が足りなかったからでも、

 努力が足りなかったからでもない。

 ただ、

 もう十分に耐えてしまったからだ。

 限界は、

 頑張らなかった人間に訪れるものじゃない。

 頑張りすぎた人間のところに、

 遅れてやってくる。

 だから、立ち止まってしまった。

 進めなくなってしまった。

 それを、弱さと呼ぶ人もいるだろう。

 逃げと呼ぶ人もいるだろう。

 それでもいい。

 少なくとも、

 ここまで生き延びてきた事実は、消えない。

 夜に逃げたいと思うのは、

 終わらせたいからじゃない。

 続けるためだ。

 これ以上壊れないように、

 一度、立ち止まるためだ。

 強く生きられなかった。

 でも、それは

 生きることを諦めたという意味じゃない。

 むしろ逆だ。

 必死に、

 どうにか生きようとしている証拠だ。

 第三章は、

 自分を責める声を、少しだけ静かにする。

 許さなくていい。

 肯定できなくてもいい。

 ただ、

 「ここまで来た」ことだけは、

 否定しなくていい。

第四章

逃げてもいいと言えなかった夜

 「逃げてもいい」

 その言葉を、自分に向けて使うのは、思っていた以上に難しかった。

 誰かに言われる分には、まだ耐えられる。

 でも、自分で自分に言うと、途端に嘘のように聞こえてしまう。

 本当は逃げたい。

 でも、逃げたら終わりな気がしていた。

 何が終わるのかは、わからない。

 未来かもしれないし、可能性かもしれないし、

 「まともな人間でいられる」という幻想かもしれない。

 逃げることは、

 すべてを放り出すことだと思っていた。

 責任も、期待も、役割も、

 全部投げ捨てる行為だと。

 だから、逃げたいと思うたびに、

 自分を責めた。

 まだやれるだろう。

 もっと頑張れるだろう。

 他の人はできているじゃないか。

 そうやって、自分を追い詰める言葉だけが、

 内側で増えていった。

 夜は、そんな言葉を持ち込ませない。

 「何もしていなくてもいい」

 「答えを出さなくてもいい」

 「明日のことを考えなくてもいい」

 夜は、何も言わない。

 だからこそ、責められている気がしない。

 カーテンを閉め、

 部屋の明かりを落とし、

 外の音を遮断する。

 それだけで、

 世界から少しだけ距離を取れる。

 夜に逃げるというのは、

 消えたいという願いじゃない。

 守りたいものが、まだ残っている

 という証拠だ。

 もし、本当に何もかもどうでもよくなってしまったら、

 逃げる場所すら、探さなくなる。

 だから、夜に逃げる自分を、

 ずっと否定してきたけれど。

 今なら、少しだけ思える。

 あれは、

 自分を守るための、最後の手段だったのだと。

 泣いてもいい。

 そう言われると、逆に泣けなくなる。

 泣く資格がない気がした。

 泣くほどの不幸じゃない。

 もっとつらい人がいる。

 そうやって、感情に順位をつけてきた。

 でも、感情に順位なんてない。

 比べられるものじゃない。

 つらいものは、つらい。

 悲しいものは、悲しい。

 理由がはっきりしていなくても、

 説明できなくても、

 それは、確かに存在している。

 夜は、それを否定しない。

 声を出して泣かなくてもいい。

 涙が出なくてもいい。

 ただ、

 胸が苦しいまま、そこにいていい。

 逃げてもいい。

 そう言えるようになるまで、

 たくさんの夜が必要だった。

 誰かに許可をもらわなくても、

 自分で決めていいことだと、

 理解するまでに、時間がかかった。

 第四章は、

 まだ完全な答えを持たない。

 でも、ひとつだけ、確かな感覚がある。

 逃げたいと思うほど、

 生きることを手放していない。

 それだけで、

 この夜は、無意味じゃない。

第五章

それでも朝は来てしまうから

 休む、という言葉が嫌いだった。

 それは、負けを認めることのようで、

 もう立ち上がらないと宣言することのようで、

 自分の価値を下げてしまう行為に思えた。

 止まったら、置いていかれる。

 遅れたら、戻れない。

 そんな恐怖だけが、

 ずっと背中を押していた。

 でも、本当は知っていた。

 もう、とっくに限界を越えていたことを。

 朝が来るたびに、

 体は動いているのに、心だけが取り残されていた。

 笑っているのに、どこか空洞で、

 話しているのに、声が自分のものじゃない。

 それでも「普通」に見えるように振る舞った。

 誰にも迷惑をかけないように。

 誰にも気づかれないように。

 自分が壊れかけていることを、

 何より自分自身に悟られないように。

 休むことを許す、というのは、

 自分を甘やかすことじゃなかった。

 「これ以上、壊れないでいさせる」

 ための選択だった。

 それに気づいたのは、

 何もしない夜が、

 少しだけ楽になったときだった。

 罪悪感は、消えない。

 不安も、なくならない。

 それでも、

 何も生み出さない時間が、

 確かに自分を生かしていると感じた。

 他人を気にしなくていい。

 そう言われても、

 簡単にはできない。

 人は人の目の中で生きている。

 評価され、比べられ、

 名前をつけられて存在している。

 だから、

 他人を気にしない、ではなくていい。

 他人より、自分を後回しにしない。

 それだけで、十分だった。

 不安は、消えないまま残る。

 「このままでいいのか」

 「何も成し遂げていない」

 「取り返しがつかない」

 そんな声は、

 静かな夜にも、朝の光の中にも、

 必ず現れる。

 でも、

 それを消そうとしなくていい。

 不安と一緒に生きる、

 という選択もある。

 前を向けない日があってもいい。

 過去を悔やむ夜があってもいい。

 それでも、

 朝は来てしまう。

 希望に満ちていなくても、

 夢を抱いていなくても、

 容赦なく、平等に。

 朝が来ることを、

 残酷だと思う日もある。

 それでも、

 目を閉じていられる夜があったから、

 朝を迎えられたのだと、

 今は思える。

 この物語に、

 大きな救いはない。

 奇跡も、

 劇的な変化も、

 はっきりした答えもない。

 ただ、

 こんなふうに生きている人間がいる、

 という事実だけが残る。

 それでいい。

 誰にもわからなくてもいい。

 誰かに届かなくてもいい。

 でも、もし、

 この言葉のどこかで、

 立ち止まった人がいたなら。

 その人に伝えたい。

 逃げてもいい。

 休んでもいい。

 わからないままで、生きていていい。

 夜を買えなかった僕たちは、

 それでも夜を生き延びてきた。

 そして今日も、

 名前のつかない朝を迎えている。

 それだけで、

 もう十分だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る