第2話 離れ

扉にかけた手が、ふと離れる。


視界の端で、現代の更地を囲うフェンスが激しくブレ、かつての中庭が、重い湿り気を伴ってそこに「再構築」される。

苔むした灯籠、ししおどしの乾いた音。 板間の渡り廊下を右へ折れると、男女別のお手洗いがあった。


……この匂いだ。 渡り廊下の先にある物入れに積まれた、漬物の大樽。 この家は、いつもどこか、発酵しすぎたような糠くささが支配していた。


長い長い「鰻の寝床」。 上り框から離れまで、床の高さが不自然に上がったり下がったりを繰り返す。 歩くたび、私の意識が過去のフレームへと強制的に同期されていく。


「おっちゃん」


その離れは、私の大好きなおっちゃんの部屋だった。

壁一面に並んだ本、微妙なバランスで積み上げられたレコード。

おっちゃんは、姉、兄を持つ、三人兄弟の末っ子だった。 家長と長男の皿が一つ多いことが「絶対の理」であるこの家で、 末っ子である彼は、甘えることさえ許されないように、いつも気配を消して静かに佇んでいた。

私の網膜に残る彼の顔は、一度として「笑顔」のデータを再生したことがない。


幼い頃、いたずらをするたびに祖母に怒られ、私は黒い階段下の押し入れに閉じ込められた。 けれど、それは私にとって「罰」ではなく「聖域」だった。

私は闇の中で懐中電灯を灯し、祖母の怒号が止むまで、静寂に浸りながら本を読み耽っていたのだ。


そんな私を、末っ子のおっちゃんだけは可愛がってくれた。 ビートルズ、カーペンターズ。 そして、彼の手から私の小さな掌へと手渡された、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。


おっちゃん、今でも私の宝物だよ。 でもね、扉を開けた瞬間に、画面がノイズで塗り潰されるんだ。 おっちゃん、あなたがあの時、本当は何を見ていたのか。

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