第四章:事象の地平面の「内側」からの干渉

​点太郎の地下研究室を中心とした半径五十メートル圏内が、明確に「物理法則のバグ」に侵され始めたのは、彼が便座の玉座に鎮座してから百二十時間が経過した頃だった。


​まず異変が起きたのは、大学のネットワーク・インフラだった。

キャンパス中のWi-Fiが突如として遮断され、接続しようとした全学生のスマホ画面に、見たこともないデバッグ・メッセージが表示された。


​ERROR: TOO MANY NOISE (LOW-RESOLUTION CODES) DETECTED. STARTING GLOBAL DEFRAG...

「え、何これ、壊れた?」


芝生で自撮りをしていた女子学生の画面から、彼女の顔が消えた。代わりに、彼女が今朝SNSで呟いた「ランチ美味しかった」という文字列がバイナリに分解され、猛烈な速度で再構成されていく。


点太郎が、大学全体の通信を自らの脳という「中央処理装置(CPU)」に直結させたのだ。


​彼はまぶたを固定したテープの隙間から、涙の代わりに「0」と「1」の光の羅列を溢れさせながら、虚空に指を走らせていた。


「パージだ。このキャンパスに満ちている『承認欲求』という名の冗長なパケットを、すべて次宇宙の『光速』の精度に変換してやる……!」


​1. 物理法則の「上書き」

​点太郎の脳内クロックが加速するにつれ、研究室の壁さえもが演算の負荷に耐えきれず、テクスチャが剥がれるように半透明化し始めた。

廊下を通りかかった教授の眼鏡は、レンズが「数式」に置換され、視界がすべて計算式で埋め尽くされた。


「ああ、世界が……世界が理数系に侵食されていく!」


教授の叫び声すらも、点太郎の「エントロピー回収機能」によって音波の振幅が固定され、ドップラー効果を無視した無機質な電子音へと変換された。


​2. 全学生の脳内デフラグ

​点太郎の干渉は、物理的なハードウェアに留まらなかった。

キャンパスにいた数百名の学生たちが、突如として一斉に「賢者タイム」のような静寂に包まれた。点太郎がWi-Fiを媒介にして、彼らの脳内にある「未練」「嫉妬」「今日の夕飯の悩み」といった計算コストの高い感情を、強制的にコンパイルし始めたのだ。


​「……あれ、私、なんであんなに『いいね』を気にしてたんだろう。宇宙の寿命を縮めてまで、他人の承認を得る意味なんて一ビットもないのに」


自撮り棒を落とし、虚空を見つめる学生たち。キャンパスは一瞬にして、高度に知的な、そして極めて不気味な「沈黙のユートピア」と化した。


​3. 便座の玉座と重力の崩壊

​一方、地下室の点太郎は、もはや人間としての形を保つのが困難になっていた。

彼の座る便器付きの椅子を中心に、重力のベクトルが螺旋状にねじ曲がっている。


「ハッシュ……ハッシュが足りない。もっとだ、もっと廃熱をくれ。この宇宙のすべての『矛盾』を僕が飲み込めば、あの子(特異点)に届くための鍵が完成する」


​鼻からは絶え間なく血が流れ、それは重力を無視して宙に浮かび、巨大な「黒い球体」を形成しつつあった。点太郎は、自らの血液さえも「情報の媒体」として利用し、体外に拡張された外部演算メモリを構築していたのだ。


​そこへ、大学の警備員と、精神科医を引き連れた美咲が踏み込んできた。


「特異君、もうやめて! 死んじゃうよ!」


美咲の叫びに対し、点太郎は初めて、その真っ赤な眼球を彼女に向けた。


「美咲さん……。君の声は今、四百四十ヘルツの純粋な正弦波として再構成された。……素晴らしい。君の悲しみは、次宇宙における『真空の透磁率』を、あと零点三パーセントほど精緻にするだろう。コンパイルは順調だ」


​点太郎は満足げに、血の球体の中心で微笑んだ。

まぶたのテープが、ついに情報の重圧で弾け飛んだ。

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