凪の調律、朝陽の溜息

淡綴(あわつづり)

第一話:落下する奇跡の速度

「偶然」という言葉は、思考の放棄に等しい。  


 事象の発生には必ず原因があり、結果との間には強固な因果の鎖が存在する。物理法則に従えば、手から滑り落ちたペンが床に当たり、そのまま重力を無視して掌(てのひら)へと跳ね返ってくるなどという現象は、この世界において起こり得ない「エラー」だ。


 僕は、自分の右手に戻ってきた愛用の多機能ペンを見つめ、それから隣に座る少女へと視線を向けた。


「……凪。今のは少し、やりすぎだと言ったはずだ」


 隠岐 凪(おき なぎ)。  


 彼女は、教室の隅や校庭のベンチといった「風景」の中に、あまりにも自然に溶け込んでいる。

 長い黒髪を揺らすその素顔は、直視すれば息を呑むほどの美貌を備えていながら、彼女の存在は、通行人が気にも留めない道端の野花のように人々の認識を滑り落ちていく。  


 だが、僕にとっては違う。彼女は風景の一部などではなく、世界というシステムに絶え間なく介入し続ける「静かなる干渉者」だ。


 凪は、読んでいた詩集からゆっくりと顔を上げた。  


 長い睫毛に縁取られた瞳が、僕をじっと捉える。その瞳は深海のように静かで、けれど僕がペンを落としたという事象に対して、明確な意志を持っていた。


「……風が、吹いただけです」


 凪の声は、微かな羽音のように繊細だった。  

 風、だと彼女は言う。密閉された屋上の入り口、無風に近い秋の昼下がりに、落下するペンの軌道を完璧に反転させ、僕の掌の座標へと正確に誘導する風。そんな気流が存在するなら、それはもはや物理現象ではなく、彼女の指先による「調律」の結果でしかない。


「嘘をつけ。今の気流の乱れは、自由落下する物体の運動エネルギーを完全に保存したまま反転させていた。凪、因果を弄るのは非効率だと言っただろう。一ミリの誤差が、世界の均衡をどれだけ不合理に歪ませるか、お前は理解していない」


 僕は、彼女の額を指先で軽く小突いた。  


 凪は「あ……」と小さな声を漏らし、打たれた場所を両手で押さえながら、顔を真っ赤にして俯いた。    


 僕の身体と、僕が触れている物事。  


 それらに対してだけは、彼女の強大な因果操作は通用しない。  


 だからこそ、僕はこうして彼女を「叱る」ことができる。彼女という神様にデコピンをして、ただの女の子の領域に引きずり戻せる唯一の人間なのだ。


 ふと、屋上の扉が開いた。  

 数人のクラスメイトが騒がしく入ってきて、僕たちのすぐそばを通り過ぎていく。


「あ、瀬戸じゃん。今日もそこで飯か?」


「ああ、そうだな」


 彼らは僕には話しかけるが、僕の隣に座る凪の存在には、まるで気づいていないかのように視線を素通りさせる。  


 彼女がどれほど美しくても、彼女自身が望まない限り、他人の瞳には「背景の一部」としか映らない。凪が作り出したこの奇妙な凪いだ世界の中では、彼女と僕がこうして肩を並べている風景は、最初からそうであったかのように自明の理として受け入れられていた。


「……瀬戸、お前も大変だな。いつも一人で屋上の端っこで。寂しくないのかよ」


「いや、僕は一人じゃないんだが……」


 言いかけて、僕は口を閉ざした。  


 凪が、僕の制服の裾をそっと掴んでいたからだ。彼女は俯いたまま、クラスメイトたちに自分たちの存在を深く意識させないよう、さらに因果の密度を増しているようだった。  

 彼らは「まあ、瀬戸らしいか」と笑い、そのままフェンスの方へと去っていった。


 静寂が、再び僕たちの間に戻ってくる。


「凪、お前が目立つのを嫌うのは勝手だが、僕まで孤独な変人みたいに扱われるのは心外だ」


「……朝陽君が、他の人に構われるのは……あまり、好きじゃないから」


 凪は消え入りそうな声で、けれど断固とした執着を込めて呟いた。  


 彼女の指先が、僕の袖を離さない。  


 世界を思うがままに操り、誰も気づかぬうちに事象を収束させる彼女が、唯一思い通りにできない僕に対してだけは、こうして物理的な力でしがみついてくる。


「……溜息が出るよ。お前はもう少し、自分の力を大切に使え。ペンの落下くらい、僕が自分で拾えば済む話だ」


「……拾う手間を、省きたかっただけです。……私の、小さな親切です」


 凪は、長い髪の隙間から僕を上目遣いに見つめた。  


 彼女の「小さな親切」のせいで、僕の日常は常に非合理な奇跡に満ち溢れている。  僕は呆れながらも、彼女の手に自分の手を重ねた。


 僕だけにしか観測できない、透明な神様の調律。  


 僕の論理的な日々は、彼女が仕掛ける三ミリの魔法によって、今日もしなやかに歪まされていく。

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