第25話 香炉は語らない
王府の一角、灯りを落とした静かな部屋。
麗雅は、卓の上に置かれた銀の香炉を前に、無言で座っていた。
女に見えなくもないが、その体つきは男である。兵部尚書であり、国の暗部を引き受けている、その道の男だ。
香炉の蓋は外され、内部の構造が露わになっている。
装飾は異国風だが、細工は粗くない。
むしろ――過剰なほどに丁寧だった。
「……なるほど」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
香炉そのものに毒性はない。
香も、単体ではただの甘い異国の調合だ。これ自体はよくある調合なのだが。
問題は、“重なり”だ。
「長時間、反復して使用する前提。精神が揺らいだ状態で吸入……しかも、対象は選ばれている」
麗雅は、記録を指でなぞる。
護衛。
侍女。
共通点は、王に近く、拒めない立場にある者。
「これは……香じゃないわね」
彼女は、静かに結論を出した。
「儀式…かしら。」
依存を生み、欲望を増幅し、
“快”を記憶として刻み込む。
しかも、香りそのものは変わらない。
異物を感じさせないよう、計算され尽くしている。
「えげつないわ、悪趣味だわ。とんでもないもん使うじゃないの。」
だが、声に嫌悪はあっても、恐怖はない。
むしろ、冷静すぎるほどだった。
「作ったのは、素人じゃない。……けれど、完璧でもないのよね。」
麗雅は、香炉の内側にわずかな“遊び”を見つけた。
配合の余地。
作用を変えられる、ほんの隙間。
「自白、錯乱、幻視……。どれを選ぶかは、こちら次第ということね。」
彼は香料の瓶を取り出し、ひとつひとつ並べる。
香りは変えない。
変えた瞬間、警戒されるだろう。
「“同じ夢の続きを見せる”だけよ。あたしったら、何て優しいのかしら。」
軽口の割に、冷たい微笑みが浮かぶ。
それが、最も残酷で、最も確実だと己の決定に納得した。
ふと、扉の外で足音が止まった。
「麗雅」
低い声。
紅狼隊の一人で麗雅の副官だ。
「進捗はどうだ?」
麗雅は振り返らずに答えた。
「ええ、だいたいってとこね。ただ、これは“遊び”じゃない。完成させるための道具よ」
「……紫流王は?」
「もう、引き返せないとこまで来るでしょうね。」
一瞬の沈黙。
「踏み込むのか?」
麗雅は、香炉の蓋を静かに閉めた。
「まだよ。あと一つ。“供給者”が必要なのよ。」
「王薇か」
「そうよ。顔はいいくせに悪趣味な商人とやらよ。」
麗雅は、小さく笑った。
「推測だけど、彼は今、“褒美”をもらっている最中のはずよ。一番、油断している頃だわ。」
副官は、それ以上聞かなかった。
部屋を出る直前、麗雅はぽつりと付け加える。
「それと――。この香炉、処刑にも使えそうよ。」
「……紫流王のか?」
「いいえ」
その声は、どこまでも淡々としていた。
「香を信じた者よ。」
扉が閉まる。
残された部屋に、甘い香りだけが微かに漂っていた。
紅い狼たちは、静かに狩を始めた。
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