第11話 欲望は秘かにその名を呼ぶ

王府の朝は、相変わらず美しかった。


花は咲き誇り、玉砂利は光を受けてきらめき、筝の音が静かに風に溶けていく。

何一つ変わらない。

何一つ、狂ってなどいない。


――表向きは。


紫流王は、目を閉じたまま深く息を吸った。

あの香りは、今はない。

それでも、脳裏に焼き付いた感覚は、簡単には消えてくれなかった。


(……まだ、足りない)


喉の奥がひりつく。

酒を飲んでも、水を飲んでも満たされない渇き。


香炉はすでに片付けさせたはずだった。

王薇も、あれ以来、姿を見せていない。


それでも――


「お前」


呼ばれた護衛は、静かに一歩前へ出る。


「……近くに来い」


忠実に従うその姿を見つめながら、紫流は思う。

以前と同じだ。

何も変わらない。


なのに、なぜだろう。


触れても、支配しても、

以前ほどの高揚が得られない。


(壊れたのか? 僕が?

それとも――)


紫流は、ふと笑った。


「王薇を呼べ」


その一言に、護衛の瞳がわずかに揺れる。

だが、何も言わずに頭を垂れた。


「……例の商人ですね」


「そうだよ。

あの香りを、もう一度」


静かな声だった。

命令というより、確信に近い響き。


王薇は、必ず来る。

来ないはずがない。


なぜなら――

あの男の目は、すでに“こちら側”を見ていたからだ。


遥か遠く。

闇の深淵では、紫の鏡が静かに揺れていた。


「ええ、ええ……いいわ」


艶やかな声が、愉しげに囁く。


「もう戻れないところまで来たわね、紫流王」


鏡の奥で、女は微笑む。


花は、もう蕾ではない。

開くことを知ってしまった。


そして――

一度開いた花は、蜜を求めずにはいられない。

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