世界一美しい嘘を、見上げていた

青二才

第1話:舞台袖の夜空

 夜空が、広告になった。


 正確には、満月の夜だけだ。


 満月の夜になると、人は必ず一度、空を見上げる。


 それが習慣なのか、本能なのか、あるいは単なる癖なのかは分からない。


 だが、少なくともこの都市では、それが“仕事”になっていた。


 僕の名は相馬 恒一。


 二十六歳。湾岸地区にある広告会社ルナビジョン第二事業部で、ホログラム広告の演出設計を担当している。


 夜の始業は、いつも屋上からだった。


 僕にとって屋上は、展望台じゃない。


 光の配置を最終確認するための、舞台袖だった。


 どこから見上げ、どの角度で、何秒後に気づかせるか。


 夜空は、まだ何も描かれていないキャンバスにすぎない。


 ビルの縁に立つと、海からの湿った風がスーツに滑り込む。


 足元では街が生き物のように脈打ち、高層ビル群の壁面には企業ロゴが半透明の膜となってまとわりついている。


 この都市では、夜ですら情報でできている。

 

 空は、まだ完全な夜ではなかった。


 藍色と黒の境目が曖昧に溶け合う、その高さに、円形の光が浮かんでいる。


 月だ。


 ――いや。

 正確には、月の隣に、だ。


 そこに、白く磨き上げられた球体が浮遊している。


 飲料メーカーの新ロゴ。


 金属でもガラスでもない、触れられそうで触れられない光の塊が、ゆっくりと回転しながら存在を主張していた。


 派手な演出はない。


 爆発もしなければ、文字が踊ることもない。


 ただ、月の光を邪魔しない絶妙な距離感だけが、異様なほど計算されている。


 それが、この広告の肝だった。


「今日も、きれいに出てるな」


 背後から声がして、僕は振り返った。


 ヘルメットを脇に抱えた先輩が、屋上のフェンスにもたれかかり、空を見上げている。


 年齢は三十代半ば。


 この仕事を「ロマン」じゃなく「勝負」として割り切れる人だ。


 ただ、きれいという言葉は正確じゃない。


 あれは「計算どおり」だ。


 月よりわずかに明るく、だが主張しすぎない。


 人は比較した瞬間に、無意識で「正解」を選ぶ。


 その癖を、僕は何度もテストしてきた。


「雲の流れ、予定通りですか」


「三分遅れ。けど誤差だろ」


 先輩はそう言って、タブレットを操作した。


 次の瞬間、ロゴの輪郭がほんのわずかに明るさを増す。


 月よりも、ほんの一段だけ強い白。


 意識しなければ気づかない。


 けれど、人の目は――とくに、無意識は――その差を正確に拾う。


 通りを歩いていた人々が、次々に足を止めた。


 首が上を向く。


 口が、わずかに開く。


 誰かがスマートフォンを取り出し、画面越しに空を切り取る。


 ――きた。


 これは承認欲求なんかじゃない。


 誰かに褒められたいわけでもない。


 世界の視線が、こちらの意図どおりに動いたという事実。


 それだけが、胸の奥を静かに満たす。


 この瞬間が、たまらなく好きだった。


 自分が引いた光の線に沿って、街全体の視線が動く。


 知らない誰かの一日が、ほんの数秒、僕たちの仕掛けた一点に縛られる。


 都市が、こちらを向く。


「写真、もう上がってますよ」


 僕が言うと、先輩は興味なさそうに鼻で笑った。


「そりゃそうだ。今日は十五夜だ」


 空気が、わずかに甘い。


 屋台の焼き菓子の匂い。


 遠くのスピーカーから流れる音楽。


 人のざわめきが夜の底で溶け合い、光に引き寄せられている。


 この光景は、もう珍しいものじゃなかった。


 僕がこの街で働き始めて、三年目になる。


 名刺には《ルナビジョン 第二事業部》と印字されている。


 この会社が扱うのは、ほかでもない――満月の夜にだけ現れる巨大ホログラム広告だ。


 最初は、誰も信じていなかった。


 月の横に広告を出す?


 そんな不敬なことが許されるわけがない。


 景観が壊れる。


 情緒が死ぬ。


 そんな声は、今よりずっと大きかった。


 ルナビジョンが最初にやったのは、ほんの遊びみたいな実験だった。


 十五夜の夜、月の横に、指先ほどの小さなロゴを浮かべただけ。


 その夜、ほとんどの人は気づかなかった。


 二夜目も、三夜目も、同じだった。


 それでも、四夜目。


 誰かが立ち止まり、写真を撮った。


 五夜目には、SNSに短い言葉が流れた。


 ――「見上げてみて」。


 たったそれだけで、街は変わった。


 満月の夜になると、人は自然と空を見るようになった。


 月を見るためなのか、広告を見るためなのか。


 いつの間にか、その区別は意味を持たなくなっていった。


 いまでは、満月広告は日常だ。


 デートの待ち合わせ。


 帰宅途中の一服。


 子どもを肩車して見上げる家族。


 誰もが、当たり前のように空に視線を投げる。


 そのときだった。


 下の歩道から、小さな声が聞こえた。


「ねえママ、お月さま、まるいのふたつあるよ?」


母親は一瞬言葉に詰まり、困ったように笑って子どもの手を引く。


「大きなきれいなのがお月さまよ」


 そのやり取りを、僕は屋上から見下ろしていた。


 風が吹き、ロゴの光がわずかに揺れる。


 月は、何も言わずにそこにあった。


「気にするな」


 先輩が言った。


「見られてる方が勝ちだ」


 勝ち。


 その言葉は、夜の空気に不思議とよく馴染んだ。


 僕はもう一度、空を見上げる。


 月と広告。

 その距離。

 その明るさ。

 その配置。


 すべてが完璧だった。


 ――少なくとも、そのときの僕には、そう見えていた。

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