第七話 恩寵の儀

──三月二十六日


 吉野の山中、桜の木々に埋もれるようにして、古い社殿がひとつ建っていた。

 社と呼ぶには簡素で、堂と呼ぶには荒れている。かつて修験の者が籠もり、あるいは行在に付随する儀を執り行ったと伝えられる建物だが、今は名も持たぬ。ただ、山肌に食い込むように立ち、周囲を異様な密度の桜に囲まれている。

 花は盛りを過ぎようとしていた。 それでも枝という枝に白が重なり、風が吹けば、昼であっても光は濾される。社殿の縁に立てば、明るいはずの時刻が、薄明のように感じられた。

 花弁は絶えず落ちていた。

 庭に、板の間に、衣の裾に。踏みしめても音は立たず、ただ白が重なってゆく。

 その中央に、帝が姿を現した。

 縁に設えられた高み。

 公卿、殿上人、神官、蔵人が居並び、その外を南朝の兵が静かに囲んでいる。武具は整えられているが、抜き身はない。ここが戦場であるとは、誰も思っていない配置だった。

 帝が姿を現すと、神衛衆は一斉に平伏した。

 先頭に立つ棟梁が伏し、四天がそれに倣い、さらに隠番たちが続く。動きに乱れはなく、数の少なさがかえって、その統制の異様さを際立たせていた。二十にも満たぬその一団が、同じ呼吸で伏した。

 頭を垂れ、視線を伏せ、誰一人として帝の顔を仰がない。それが忠節の作法であり、この場に集められた理由でもあった。

 帝は多くを語らなかった。

「その忠勤、まことに嘉す」

 声は高くも低くもなく、ただ形式に従った響きを持っていた。

 その一言で、場は満たされた。

 酒が下賜される。

 白木の杯が配られ、神衛衆の前に置かれる。祝いの作法であり、疑う理由はなかった。誰もが、これは恩寵の儀であると疑わずにいた。

 ほどなく、蔵人の一人が進み出て、静かに告げる。

「あとは神衛衆に任せよ。帝は穢れを避け、奥にて御休座なさる」

 それは予定された言葉だった。

 誰も異を唱えない。帝は象徴としてのみ姿を現し、あとは奥へ退く。それが、この儀の在り方である。

 帝は縁を下がり、姿を消した。御簾の向こうへ。奥へ、さらに奥へ。

 その背を、誰も見送らない。

 神衛衆はなお平伏したまま、ただ「御覧になっていた」という事実だけを胸に刻む。

 帝が去ったあとも、場は崩れなかった。祝詞は続き、列は整い、兵は動かない。桜の花弁だけが、相変わらず落ちていた。作法に則り、一同が酒を口に含む。

 誰もまだ、気づいていなかった。この場所が、すでに儀ではなくなっていることを。

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