第二話 棟梁

 影刻と理周が出会った、その翌年の五月のことである。

 南朝神衛衆の棟梁であった雉裂影之かげゆきは、任務の最中に重傷を負った。影刻の父である。

 南朝の帝・長慶ちょうけい天皇は、楠木正成くすのきまさしげの命日にあたり、密かに吉野を訪れていた。

 正成は延元元年(1336)五月二十五日、湊川の戦いに敗れ、一族とともに自害して果てた人物である。帝はその忠節に深く心を寄せており、没後四十余年を経たこの年も、なおその功を偲んでいた。

 帝が向かったのは、吉野山中、修験者の行場として使われてきた奥深い一角であった。南朝神衛衆もまた、警護の任に就き、万全の態勢を敷いていた。

 しかし帰路において、国人勢力による襲撃があった。捨て身の覚悟で挑んできた一団であったが、神衛衆の働きにより撃退され、帝自身は襲撃があったことすら知らぬまま、無事にその場を離れている。

 ただ一つ、予想外であったことがある。

 もとより肺を病んでいた影之が、戦闘の最中に発作を起こし、その隙を突かれて深手を負ったのだ。

 この負傷により、影之は以後、前線に立つことが叶わぬ身となった。

 そして彼は、自ら棟梁の座を降りる決心をした。

 影之は、五人の小頭を集めた。深手を負ってはいたが、動かねば問題はなかった。

 棟梁を退く意向は、すでに伝えてある。残された問題はただ一つ──誰がその座を継ぐのか、であった。

 世はなお世襲が当たり前である。通常であれば、実子である影刻を推すところだろう。だが影之は、その習いに囚われなかった。

 彼が後継として名を挙げたのは、小頭の一人、真四郎ましろうである。

 強さ、判断力、人柄。いずれを取っても申し分なく、影之自身が最も信を置く男であった。

「私には、棟梁は務まりません」

 真四郎は即座に首を振った。

「やはり、この座に立つべきは影刻でしょう」

 ほかの小頭たちも、ほぼ同じ考えであった。

 真四郎は影刻より年長だが、肝胆相照らす仲である。互いを呼び捨てにし、遠慮なく言葉を交わす間柄でもあった。

「確かに、あやつは強い」

 影之は静かに言った。

「やがては、儂など容易く凌ぐだろう。だが──若い」

 一拍置き、影之は一堂を見回した。

「そして何より、人を信じすぎる。疑うことを知らぬ。その在り方は、必ずや後に災いとなる」

 沈黙の中で、小頭の最年長である羽墨うずみが口を開いた。

「しかし棟梁。定衡さだひら様は、影刻殿に大きな期待を寄せておられると聞き及んでおります」

「……御支配までも、か」

 影之は息を吐いた。

 定衡──藤原ふじわら定衡。

 神衛衆を実質的に束ね、帝との繋ぎ役を務める存在である。

「それならば、私が影刻の補佐をいたします」

 真四郎が一歩踏み出し、影之に頭を下げた。

 影之が暫く沈黙した。

「儂も、密かに見守ろう」

 影之は、そう言って目を閉じた。

 かくして、影刻が次期棟梁と定められた。


 五月末ともなると、山は一層緑を濃くしていた。

 影刻と理周は、アユとアマゴを肴に、川を眺めていた。

「理周さん、どうやら俺は神衛衆の棟梁になるらしい」

「ほぉ。では、これからは棟梁殿と呼ばねばならぬな」

 影刻は苦く笑った。

「こうして酒を呑むことも、難しくなるかもしれん」

「それほどのものか」

「……分からん。ただ、重い」

 川面に魚が跳ね、波紋が広がる。

「剣なら負けぬ自信はある」影刻は、ぽつりと言った。「だが、人の上に立つとなると……」

 理周は答えず、竹酒を一口含んだ。

「すべてを背負わねばならぬと思うから、重いのだ」

「棟梁とは、そういうものではないのか」

「そうであった者もおる。そうでなかった者もおる」理周は川を見たまま、続けた。「山はな、一人で立っておるように見えて、 根は幾つも絡み合っておる。 お前がすべてになろうとせずとも、山は山であれる」

 影刻は、しばらく黙っていたが、顔を上げ、山を見た。その顔にもう迷いは見られなかった。

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