(三) 識閾破壊
青木は顔を覆いたくなった。最悪の事態だ。
日向はわけの解らぬまま、紅林に激しい敵意をおぼえた。
昶は混乱におちいった。
男が泣いていいのは生涯二度、人前で涙をみせるなんて恥ずべき。マナー教師が垂れるのは
現象が認識を破壊しにきている。
スポーツマン体型成人済が子ども帰りし大声で泣きじゃくっている、自分の胸で。
180センチの自分よりさらに10センチ大きな男なのだ。
「お…お前、何なんだよぉ」
混乱する昶はたどたどしく言いかえす。
日向は能動的だった。
「昶くんから、離れろ!」
紅林をひきはがそうとしていた。昶より小柄で細身だが
青木は冷や汗をかいて平謝りした。
「す、すいません。今ちょっと精神状態が普通でなくて」
リカの遺族に悪い印象をあたえたくない。劇団側としても。紅林は二年近く前正式に退団しているので、青木もリカさえ責任を感じる必要はないのだが……。
「あなたの言い方おかしいですよ! 故人の家族こそ今は普通じゃいられないのに。思いやれないのか?」
日向は今度は青木をターゲットにした。ひとり殺すもふたりも同じ、暗い情念を滾らせるリチャード三世の的確さ。若見えする優しげな顔立ちだが。
青木は理不尽に呻く、大型犬が人を噛むと叱られるのは飼い主。
紅林に飼い主がもしいるならリカしかいないのに。。
いやボルゾイなんかじゃない。紅林は日本語を話す……から厄介だ。
紅林は昶に長い腕を回したまま、双子の姉に全く似たところのないゴリラ顔を見つめ、言った。
「昶くん、ボクがリカさんのフィアンセだよ」
紅林の言い方は、まるで、まるで……戦禍に遭って全係累を亡くし、戦場を彷徨っていた兄弟が奇跡的にめぐり逢ったかのようだ。
そんな浮世離れしたセリフを耳元に吹き込まれ、紅林を見つめ返した昶は呼吸を…いや思考を止めた。
心がおかしいで片付けるには美しすぎる瞳。
昶は驚愕、呆れ、茫然……さまざまな感受性を攪拌された混沌にいた。
常人より繊細な昶が、紅林香史郎とコンタクトした結果だ、当然だろう。
日向は心友の昶くんに加えられる特異な精神攻撃を察し、端正な唇をゆがめ憎しみを青木にぶつけた。(これもお前のせい)正気を残した者が責められる。おかしげな方は糾弾されにくい現世の
青木の悲劇は、紅林をエスコートするのに自分が適役と弁えていたこと。嫌な予感が的中したら、恋愛に限りなく近い尊敬心を抱いていた故人になり代わり、紅林について説明できる。。
リカが紅林と「婚約の口約束」をした情況を当事者紅林以外で知っているから。
日向が憤っている間、青木が悩んでいる間、紅林はずっと昶の胸で泣きつづけていて、日向の針視線からますます猛毒が滴った。
なのに……
昶を除く花納家の人々、そして親類縁者リカの学友たち、この悲しい葬儀に列する者は、誰もこの事態を異常と受け取らなかった。
紅林を排除にかかるどころか、同情し、深く共鳴し……新たな涙にさそわれていた。
リカは若かったし美しかった。
女優としての評価も、舞台人としての名声もこれからだった。
そのリカを失ったファンならむしろ自然な行動じゃないか。
紅林とは大いなる喪失感の体現、代償だった。心理学の癒し行動である。
納得する人々は快感さえおぼえる。
——リカちゃんと最後のお別れを? ええ、もちろんよぜひ……。
リカの母親さえ、平穏な家庭に「娘さんの許婚者でした」なんていきなり現われたら修羅場だろうに、泣きぬれた目に優麗な感情をたたえ完全に紅林という存在を受け入れていた。
やはり問題は昶だった。
はじめの衝撃……というか現実失調感覚からわずかに持ち直し、愛していた女の(自分に知らされなかった)裏切りを信じたくないからこそ、嫌悪と憎悪をフィアンセ自称男に全開した。
——大洞こきも大概にしろ! 俺のリカと結婚の約束だと?
いくつかの疑惑……悪夢の答え合わせの感覚もあるくせに。。
この見かけから「浮世離れ」した男なら、ひょっとしてもしかして結婚してもいいとリカに思わせた怖れもある。リカが書いた「理想の男」、そして最終ページの"a rear admiral"直訳すれば海軍少将だが、少将と言うフレーズがノートから剥がれだし蛾のように脳裏を舞って、毒のある鱗粉を振りまいた。
リカはそこらに転がる面食い女など足元にも及ばない、孤高の美意識の持ち主だった。だが高すぎる美意識を……ことごとく叶える美術室の彫刻みたいな横顔をしてやがる。ここまでやらかし只のストーカーなら、いますぐ首をしめ息の根を止めてやる——平和主義のゴリラをそこまで凶暴な気分に駆り立てるほど美貌だった。
そんな抹殺対象が自分の胸で泣きじゃくっているのだ。
男を抱いたことは何度もあるが、こんな異常な情況ははじめてだ。ゲイでなくても恋愛感情は一種の狂気をもたらすものと知り尽くしているが。
昶でなくても自分の胸でこんなに泣かれたら狂わされる、
——リカの死を知ってから眠っていない。
明日も明後日も眠れなくても、別にどうでもいいと思っていた。
リカを失ったこの世界で、自分ごときが正常に生きてなんの意味があるとどこかで思っていた。
リカが書いたノート、人生の最後に作りあげようとしていたドラマツルギーに理解も共感もできないポンコツで、まともに生きていい理由なんかないどこにもないと……
繊細ゴリラは苦悶していた。
190センチを超える美丈夫を胸に抱いたまま、壊れかけの己の心も抱きしめ、激しすぎる苦痛と陶酔感との区別がつかなくなっていた。
葬儀の場で流される涙には特別な力がある。この場に会する人々をひとつの想い、ひとりの人間を悼む心に集束させる偉大な魔法なのである。
「泣き女」が葬儀で神聖視される所以だ。
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