第5話:10年越しの「億り人」
第5話:10年越しの「億り人」
「……よし。やるか」
深夜二時。妻の恵子が眠りについたのを確認し、俺は再び書斎の椅子に深く腰を下ろした。 手の中には、あの冷たい金属の感触——ハードウェア・ウォレット。 昨夜の出来事が夢ではなかったことを確かめるように、俺は何度も指の腹でデバイスの表面をなぞった。
部屋を包むのは、エアコンの低い唸りと、自分の激しい鼓動だけだ。 USBポートに差し込むと、画面には昨日と同じ、無機質な入力欄が浮かび上がる。
『Enter Passphrase』
ここからが、真の「門」だ。 PINコードは通った。だが、このウォレットを初期化した際に設定した二十四の英単語(シードフレーズ)と、さらにその奥に隠した「パスフレーズ」を、俺の脳は正確に保持しているだろうか。
「……確か、あの時。俺は銀行のシステムに絶望していたんだ」
十年前。上層部の不祥事を揉み消し、真面目に働く中小企業の社長を見捨てる組織に身を置きながら、俺は「自分だけの聖域」を作ろうとした。 銀行のパスワードのように、定期的に変更を強要され、誰かに管理されるものではない。 俺の魂だけが知っている、一つの言葉。
キーボードの上に指を置く。 指先が、ピアノの鍵盤を叩く直前のように微かに震えている。 一文字ずつ、記憶の底から掬い上げるように打ち込んだ。
『L-I-B-E-R-T-Y(自由)』。
そして、最後に俺が愛した——かつての自分を取り戻すための数字。
「……頼む」
Enterキーを叩く。その瞬間、世界から音が消えた。 画面が真っ白に発光し、読み込みを示す円が高速で回転を始める。 十年前の百万円が、今、現在のデジタルネットワークと接続され、再定義されていく。
一秒が、一分にも感じられた。 不意に、ファンが悲鳴のような音を立てて回り、画面が切り替わった。
「…………っ」
肺の中の空気が、すべて抜けていくような感覚だった。 画面の中央、漆黒の背景に、白く輝く数字が踊っていた。
『Balance: 400.00 BTC』 『Market Value: ¥4,000,000,000-』
「……じゅう、ひゃく、せん、まん……」
声が震え、涙がこぼれ、机の上の書類を濡らした。 四十億。 銀行の支店長として、数えきれないほどの決算書を見てきた。数千億の融資案件にハンコを押したこともある。だが、画面に表示されたこの「四十億」は、それらとは全く異質の、質量を持った「暴力」のような輝きを放っていた。
「ハハ……ハハハハ……!!」
俺は、込み上げる笑いを抑えきれず、口元を両手で覆った。 この数字は、今の俺を「無能」と笑う高橋たちの年収の、何百年分だ? 北村社長が、俺を「置物」と呼んで追い払った、あの会社の時価総額すら超えているのではないか。
俺は狂ったように、換算レートのページを更新し続けた。 一秒ごとに、数十万、数百万という単位で数字が上下する。 「一秒で、アイツらの月給分が動いている……」
その時、画面の端に通知がポップアップした。 かつての部下たちが作っている、銀行OBも含めた非公開のSNSグループ。退職後も消し忘れていたその画面には、今まさに俺の悪口が書き込まれていた。
『【悲報】元支店長の佐藤さん、今日もハロワで目撃されるw』 『マジ? コンサル(笑)全滅っすね。誰か、小銭恵んであげればいいのに。ビットコインとか言ってたし、1satoshiくらい(笑)』
「……ふん」
俺は鼻で笑い、マウスを握り直した。 怒りは、すでに消えていた。 象が蟻に踏まれても怒らないように、圧倒的な力の差は、感情を無機質な「慈悲」へと変える。
「小銭、か。いいだろう。お前たちが一生かかっても触れられないほどの『小銭』を見せてやるよ」
俺は、暗号資産を現金化するための、海外のプライベート・バンクと、国内の信頼できる大口取引窓口(OTC)へのコンタクトを開始した。 かつての銀行員としての知識が、今、この莫大な資金を「透明な力」に変えるための武器となる。
窓の外では、夜明けの気配が漂い始めていた。 東の空が白み始め、暗闇が紫色のグラデーションに溶けていく。 俺は立ち上がり、大きく伸びをした。 肩の凝りが、嘘のように消えていた。
「さあ……佐藤コンサルティング事務所、本日開業だ」
俺は、デスクの引き出しから、かつて北村社長に突き返された「経営改善計画書」を取り出した。 それはもう、ただの紙屑ではない。 四十億の裏付けを持った、死神の招待状だ。
俺を捨てた組織。 俺を笑った部下たち。 俺を見捨てた取引先。
お前たちが信じている「格付け」という名の幻想を、俺が個人で書き換えてやる。 四十億あれば、銀行一軒を揺るがすことさえ、不可能ではない。
「まずは、挨拶回りから始めようか」
鏡の中に映る俺は、昨日までの「終わった男」ではなかった。 瞳には、かつて数兆円の市場を動かそうと夢見ていた、若き日の野心が、さらに冷徹な光を帯びて宿っていた。
最強の「個人」が、世界という名の市場へ、今、解き放たれる。
次は第6話「逆襲のコンサルタント」ですね。四十億という「神の視点」を手に入れた佐藤が、どのようにしてかつての敵を追い詰めていくのか。舞台を北村社長の会社に移して、執筆を進めますか?
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