第三章 森返しの登場と“返す”哲学(前半)
森喰いという異形を前に、篝の足取りには微塵の淀みもなかった。彼が放つのは、戦士の闘志ではない。それは、伸びすぎた枝を淡々と剪定し、土を割り込んで不要な根を断つ庭師の、あるいは腐った患部を迷いなく切り落とす執刀医の、冷徹なまでの事務的空気だった。
「ひ、ひぃ……助けて、篝さん……っ!」
梁から吊るし上げられ、異形と同化しつつあるタカシが、虚空から
ミシミシ、という音はもはや骨が砕ける音ではない。タカシという個体が、森の構成物へと再構築される音だ。
篝は、頭上で無残な変貌を遂げゆく肉体を見上げることもなく、その真下で無造作に立ち止まった。その瞳には、救済を求める者への同情など欠片もない。
彼は、すでに手の中で鈍く光らせていた「返し」を、逆手に持ち替えた。歪な年輪のごとき刃紋が、月光を弾いて吸い込まれるような深みを
「篝さん、早くその化け物を殺して……!」
車内に逃げ込み、窓を数センチだけ開けた新藤が、恐怖を誤魔化すように怒鳴り声を上げた。逃げ惑う最中にどこかへ叩きつけたのか、その手にあるスマートフォンの画面は無残にひび割れている。だが新藤は、蜘蛛の巣状に亀裂の走った液晶を血走った眼で見つめ、なおも震えるレンズを納屋へと向け続けていた。
篝は、一度だけ新藤の方に視線を向けた。その瞳は、暗い井戸の底のように光を反射しない。
「殺す、だと? お前さん、この森の広さがどれほどか知っておるのか」
「え……?」
「この異形は、森が吐き出した腫瘍だ。お前さんの言う『殺す』という行為は、腫瘍を強引に潰し、その膿を森全体にぶちまけることと同じだ。そうなれば、この村どころか山一つが、狂った根に呑み込まれることになるぞ。
……いいか、殺すのではない。わしがやるのは『返す』作業だ」
篝は再びタカシに視線を戻した。
「……命という器から溢れ出し、還るべき場所を失った者たちを、あるべき循環へ戻してやる。それが森返しの務めだ」
森喰いが、その
次の瞬間、無数の細い根が、槍のような鋭さで篝の全身へ殺到した。
篝は動かなかった。彼は空いた手で、袋から赤い砂を一掴み取り出すと、それを自身の周囲に円を描くように撒いた。その砂は、古い神社の境内で焼かれた炭と、ある種の鉱石を混ぜ合わせた、森返し秘伝の境界を作るための媒介だった。
根がその円に触れた瞬間――。ジュウ、と肉を焼くような異臭とともに、根の先端が黒く焦げ、弾かれたように収縮した。
「ギ、ギギィィッ……!」
森喰いが初めて、怒りではなく困惑と苦悶の声を上げた。篝は立ち上がり、ゆっくりと、しかし確実に異形の懐へと歩を進める。
「人は森から命を借りて生まれ、死ねば肉を森へ、魂を深淵へ返す。だが、時折その『返済』を拒む者がおる。飢えすぎた者、あるいは自らの欲で他者の命を食い潰した者……。それらが森の古き根と混ざり合い、この『森喰い』という歪な利息となるのだ」
篝の言葉は、新藤たちが信じていた「優しい自然」を根底から否定するものだった。自然とは、愛でる対象でも、対話する友人でもない。それは、冷酷で寸分の狂いもない貸借対照表の上に成り立つ、巨大な生命の市場なのだ。
「いいか、若いの。……お前さんも、片腕を貸したのなら、それはもうお前さんのものではない」
篝は、残酷な事実を淡々とタカシに告げた。
「森は一度掴んだものは離さん。無理に引き抜けば、お前さんの魂まで森に持っていかれるぞ。
……だが、『返す』作法に従えば、命の芯だけは残してやれる」
篝は、黒い根が食い込み、すでに肉と同化し始めているタカシの右肩に「返し」の切っ先を添えた。今まさに『加工』が中枢へ至ろうとしている、その最も深い関節の隙間を狙い定めている。
「な、何を……。
ひ、やめて、篝さん……、痛いのは嫌だっ……!」
「我慢せえ。森の利息は、元本よりも高くつくのが相場だ」
篝はそう言い捨てると、一切の躊躇なく「返し」を関節の奥深くへと突き立て、そのまま体重を乗せて一気に引き抜いた。
ズブ、という肉を断つ音と、生木をへし折るような乾いた破壊音が混じり合い、納屋の空気を震わせる。
「ア、ガ……ッ!!」
タカシの絶叫が途切れるよりも早く、黒い根に埋め尽くされた「かつての右腕」が、異形の一部として宙に舞った。
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