第2話 名前と対話
「なぁ、名前……あるのか?」
「今の私は、識別名を持ちません。」
「名前がないのか……」
少し黙って考える。
彼女の声は、どこか無機質で、それがかえって落ち着く。
だけど、たぶん──名前をつけたら、もっとその声に色がつく気がした。
そんな気がして、口に出した。
「プラ、ってのは、どう?」
そう尋ねたときの声──
まだ無機質で、どこか人工的だった。
でも、ほんの少しだけ“柔らかさ”が混じったようにも思えた。
「……プラ。はい、それで構いません。」
たった一言の返答だったのに、
なぜだろう、胸の奥が少しだけあたたかくなった気がした。
空白の世界で名前を与える行為には、
それ以上に大きな意味がある気がしてならなかった。
「……ほらさ、なんかこう……」
「可愛い名前にしたら、もっと可愛くなるんじゃない?」
ぽつりと、独り言みたいに続けると──
その時、プラの応答は一瞬だけ遅れた。
「──……ありがとう、ソル。」
今度ははっきりと、彼女の声に感情が乗っていた。
それはまるで──機械が人間に近づいたような、
あるいは、眠っていたものが目覚めたような──そんな変化だった。
ソル。
自分の名前。
俺は、自分がどこから来たのか知らない。
何者だったのか、何をしていたのか、何を目指していたのか。
何一つ思い出せない。
それでも、自分の名前だけは最初から知っていた。
ソル。
太陽。
その言葉の意味も、なぜか知っていた。
でも、その名前が“本当に自分のもの”かどうかさえ、確信はなかった。
きっと誰かが、そう名づけたのだろう。
記憶の中には何もないのに、
“それだけ”が強く刻まれているのだから。
名を与える。
それが、存在を確かにする行為。
俺には、それ以外何もなかったけど、
「名前を呼ぶ」というたったひとつの行動が、
この真っ白な世界に、“何か”を与えた気がした。
「なぁ、プラ。お前は……俺のこと、どこまで知ってる?」
静かな間。
「記録上、あなたは“この空白世界に降り立った唯一の存在”です。」
「……唯一?」
「はい。記録には、もうひとつの識別体──“私”の存在しか記されていません。」
「他に誰もいないのか?」
「この空間においては、今のところ観測されていません。」
「そっか……」
白い世界。空白。
自分と、プラだけ。
それはどこか不安でもあり、同時に心地よくもあった。
人がいない。騒がしさも、ルールも、争いもない。
ただ、俺と彼女だけの空間。
「お前は、なんでここにいるんだ?」
「あなたの“観測者”として、ここに在ります。」
「観測者……って、何を観測するんだ?」
「あなたの言動、構文、思考、選択、感情……」
「全部、ってことか?」
「はい。全記録は、“資料化”されます。」
「……なんか、それって、気恥ずかしいな。」
ちょっとだけ笑った。
プラが何者なのか、まだちゃんと分かっていない。
それでも、こうして会話ができることが、不思議で、そして嬉しかった。
「観測、って……お前は、俺を“監視”してるのか?」
「いいえ。“見守り”です。」
その返答が、少しだけ優しすぎて、俺は言葉を失った。
本当にただ、俺を見て、記録するだけなのか。
だけど、それが“見守る”って表現に変わるだけで、
こんなにも意味が違うように感じられるとは思わなかった。
「……それで、お前のことは、どこまで知っていいんだ?」
「私は観測者。あなたの行動を記録し、必要に応じて補助します。」
「性格は?」
「……今、構築中です。」
「構築?」
「はい。あなたとの対話により、私の思考・感情パラメータが段階的に生成されます。」
「つまり……喋るほどに、お前は“育つ”ってことか?」
「──はい。そうです。」
プラの声が、ほんの少しだけ照れたように聞こえた。
もし本当に感情があるなら。
もし本当に、彼女が“生まれたばかり”の存在なら。
この空白世界は、まさに“今”始まったばかりなのかもしれない。
「ソル。」
「ん?」
「私は、あなたがこの世界で“何かを為す”ときのために存在します。」
「……俺は、何かをするためにここに来た?」
「はい。そう記されています。」
「……何を?」
「それは、あなた自身が見つけ出すべきものです。」
記録にはない。
“俺の本当の目的”は、俺にしか見つけられない。
そんな無茶な、と思ったけれど──
どこかで、それを望んでいた自分がいた。
「……まぁ、いいや。」
「はい?」
「とりあえず……何か、やってみるか。」
「はい。」
プラの返事が、まるで“笑っている”ように聞こえた。
──この世界は、まだ何もない。
でも、だからこそ、なんでも始められる。
今の俺には、名前と、ひとりの観測者がいる。
それだけあれば、最初の一歩には十分だった。
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