第3話 城門の対峙
城門に立つのは、いつだって覚悟がいる。
だが今夜ほど、足が重い夜はなかった。騎士団長という立場がこれほど頼りなく感じたことはない。
天が裂けたかのような豪雨が、レムリアの石門を叩いている。
闘の中で揺らめく無数の松明。雨粒に弾かれてジジと音を立てる炎が照らし出すのは、漆黒の甲冑に身を包んだ帝国の精鋭騎兵だった。
自分は殿下と共に、濡れた石段を踏みしめて門塔の上へ登った。
吹き付ける風が、殿下の隻腕の袖を激しく煽る。だが、その足取りに乱れはない。
先ほど呪術師を捕らえたばかりだ。普通なら動揺していてもおかしくない。なのに、この方は平然と次の戦場に立っている。
眼下を見下ろす。
雨に煙る視界の先、騎兵の列の先頭に一人の男がいた。
帝国の千人長。顔の左半分に大きな古傷を持つその男は、雨に打たれることも厭わず、馬上から不敵な笑みを浮かべてこちらを見上げている。
檻の中の獲物を値踏みする目だ。腹の底が煮えた。
「公王は現在、快方に向かっておられる。だが、毒気による衰弱が激しく、医師より絶対安静を申し付けられている」
副官が、張り上げた声で主君の言葉を伝えた。雨音にかき消されぬよう、必死の声量だ。
「よって、王太子殿下が、王の名代として万能薬を拝受する! 門を開ける準備はできている、お入り願おうか!」
千人長が鼻で笑った。
その侮蔑の篭った仕草は、距離があってもはっきりと見て取れた。
「ほう、王太子が。……だが、我が皇帝陛下は『直接』公王へ届けるよう仰せだ。万能薬は扱いが難しい。若造に渡して、もし公王の身に何かあれば、それは我が国の責任になってしまう」
若造。
頬が引きつった。
鉄の手甲をはめた拳を、ギリリと音が出るほど強く握りしめる。
この若き主君が、どれほどの覚悟で右腕を失い、国を支えてきたか。それを知りもしない他国の軍人が、容易く口にしていい言葉ではない。
「……我々は、門の前で待たせてもらう。公王が目を開けるか、あるいは、我々の我慢が限界に達するまでな」
千人長の言葉を合図にしたかのように、背後の闇から重厚な音が響いた。
数百の鎧が擦れ合い、蹄鉄が泥を掻く。
彼らは待っている。「公王が死んだという確証」か、「交渉決裂を口実に城内へ突入する機会」を。
殺気が、雨と共に城壁へと押し寄せてくる。
その時、殿下が一歩、前に出た。
「千人長」
その声は、決して大声ではなかった。
だが、冷徹な響きを持って雨音を貫き、千人長の耳へと届いた。
「『若造』と言ったな。次期王たる私が、大帝国とはいえ千人長ごときよりも信じられないと、そう申すか」
千人長の笑みが、わずかに固まった。
隻腕の若者から放たれた覇気が、物理的な距離を超えて肌を刺したのだ。
自分も、その気迫に背筋が震えるのを感じた。これが、我が君だ。
「それは本当に、皇帝陛下の言葉と捉えていいのか?」
殿下の声が、さらに冷たさを増した。
「山を越えたとはいえ、予断を許さない状況とは伝えてあるはずだ。もし無理を通して王に会い、その結果何かあった場合は、我が国は『信頼できない若造が王の国』になる。……それを乗っ取るつもりだ、と捉えていいのか?」
沈黙が落ちた。
雨が鎧と石畳を叩く音だけが、重苦しく響く。
外交上の「建前」を剥ぎ取り、相手の薄汚い本音を公然と突きつける。一歩間違えれば宣戦布告と取られかねない、ギリギリの賭けだ。
だが殿下は、怯まない。
「少し話したいこともあったが」
殿下は、興味を失ったかのように踵を返した。
「そちらがそのような態度であるなら、考え直さなくてはいけないな。同盟のあり方を」
千人長の顔から、完全に笑みが消えた。
弱小国の、しかも「若造」と侮っていた王太子から、これほど直截的な詰問と脅しが返ってくるとは、予想していなかったのだろう。
長い沈黙の後、千人長は兜の奥で低く笑った。
「……くく、面白い。よかろう。我らも誇り高き帝国軍人だ、無礼の謗りを受けてまで門をこじ開ける趣味はない」
千人長は、ゆっくりと馬首を巡らせた。
「だが殿下、覚えておかれよ。信頼とは言葉ではなく、結果で示すものだ。万能薬は我が部隊が預かっておく。日の出までに、公王自らがその足で門まで迎えに来られぬのであれば……我々は『公国は既に他国に支配された』と判断し、独自の判断で動かせていただく」
帝国軍は完全な撤退こそしなかったが、門から矢の届かぬ距離まで後退した。
しかし、その陣形は解かれていない。いつでも突撃に転じられるよう、切っ先を喉元に向けたままの「待機」だった。
◇ ◇ ◇
門塔を降りながら、自分は殿下の横顔を見つめた。
雨に濡れた黒髪が額に張り付き、その表情は蒼白だ。だが、瞳の光は失われていない。
「殿下。見事な采配でした。あの千人長を言葉だけで下がらせるとは」
「まだ何も終わっていない」
殿下の声は、感情のない平坦なものだった。
「日の出まで、あと数時間。それまでに、別の手を打つ必要がある」
「別の手、とは」
「セドリック副団長を、私の部屋に呼べ」
自分の足が、ピタリと止まった。
濡れた石畳の上で、重い足音が途絶える。
「セドリックを……?」
「リオラの報告では、あいつが帝国に通じている可能性が高い。確かめる」
殿下が振り返った。
松明の陰影に彩られたその瞳には、友を疑わねばならぬ悲哀ではなく、王としての冷徹な責務を表す暗い光が宿っていた。
「あいつにだけ、こう伝えろ。『王は死んだ。このままだと、あと一時間もしないうちに教皇国に侵食される』と」
「……殿下、それは」
「ブラフだ」
殿下の声が、低くなった。
「もしセドリックが本当に裏切り者なら、この情報を帝国に流すはずだ。『王が死んだ』と聞けば、帝国は夜明けを待つ理由を失う。そして、もし帝国軍が日の出を待たずに動き出したら……その情報源は、セドリックにしか伝えていない嘘だということになる」
背筋が冷たくなった。雨の冷たさとは違う、内側から凍りつくような感覚。
この方は、かつての戦友を罠にかけようとしている。
生きるか死ぬかの極限状況で、最も信頼すべき部下の忠誠を、嘘という毒をもって試そうというのか。
「……承知いたしました」
喉の奥から絞り出すように答え、再び歩き出した。足取りは、先ほどまでよりも鉛のように重い。
セドリック。
共に戦場を駆け、同じ釜の飯を食らい、背中を預け合った男。
初めて死線をくぐったのも、あいつと一緒だった。敵の槍に腹を抉られかけた自分を、あいつが身を挺して庇った。あの時の傷が、今も脇腹に残っている。
その彼が、裏切り者?
信じたくはない。だが、殿下の判断が間違っていたことは、これまで一度もなかった。
腰に下げた剣の柄を強く握りしめた。
革の感触が、無慈悲な現実を掌に伝える。
もし、あいつが本当に裏切り者なら——。
その時は、自分の手で決着をつけなければならない。
降りしきる雨の中、自分は友を断罪するための重い一歩を踏み出した。
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