第14話 孤高の共鳴 ―― 少女・結衣が見た「神の指」と絶対零度の旋律

 六月。梅雨の湿気が重く垂れ込める都心において、港区の一等地に建つ「ミューズ・エリート・ピアノアカデミー」の内部だけは、楽器にとって最適な湿度50%、室温22度に厳密に保たれていた。


 ここは、国内のコンクールを総なめにした神童だけが入会を許される、音楽の聖域。その最奥にある第1特別レッスン室の扉の前で、高坂結衣(こうさか ゆい)は、自分の番を待ちながら、今までに感じたことのない異様な「寒気」に襲われていた。


(……何、この音。ショパンの『ノクターン第2番』のはずなのに……どうしてこんなに、呼吸が苦しくなるの?)


 重厚な防音扉の隙間から漏れ聞こえてくるのは、白石玲奈の演奏だった。 結衣は四歳からピアノを始め、その感受性の豊かさと華やかな音色で「鍵盤の妖精」と謳われてきた。彼女にとって音楽は「歌うように(Cantabile)」であり「感情を爆発させること」だった。しかし、今聞こえてくる音には、結衣が知る「人間味」が一切排除されていた。


 室内では、元ベルリン・フィルのソリスト、エレーナ・ボルトニコワが、玲奈の指先を射抜くような目で見つめていた。


 玲奈にとって、ピアノという楽器は「物理学と音響学の複合装置」に過ぎない。


(……このホ長調の主音、Eの音。……スタンウェイ特有の、高周波域における基音と倍音の減衰比率を計算する。……指先の皮膚の接触面積を1ミリ平方メートル単位で調整し、ハンマーが弦を叩く瞬間の衝撃波を、正弦波に近い純粋な振動へと変換する。……ペダルによる共鳴板の干渉を0.01秒単位で操作し、残響の減衰曲線を理想的な対数グラフに近似させる)


 玲奈の脳内で展開されているのは、楽譜の解釈ではなく、音響エネルギーの設計図だった。 奏でられた旋律は、聴く者の情緒に訴えかけるのではなく、脳の聴覚野を直接、物理的な「冷たさ」で麻痺させる。それはまるで、北極の深海で凍りついた結晶が、一斉に砕け散るような、絶対零度の美しさ。


 レッスンが終わり、玲奈が扉を開けて出てきたとき。


 結衣は椅子から立ち上がることさえ忘れ、呆然と玲奈を見上げた。玲奈の額には汗一つなく、その瞳は鏡のように冷たく、凪いでいた。


「……白石さん」


 結衣の声は震えていた。自分の手が、まるで泥に汚れた不器用な道具のように感じられた。


「今の音……何? 練習して、辿り着ける場所なの? 感情を込めていないのに、どうしてあんなに……世界が壊れるような音がするの?」


 玲奈は、結衣の震える小さな手を見つめた。前世の自分が抱いていた、手の届かない存在への羨望と、自分の凡庸さに対する絶望。それが結衣の瞳の中に渦巻いている。 玲奈は、大人としての慈悲と、天才としての残酷さを同時に孕んだ声を絞り出した。


「高坂さん。……私は、音を歌わせているわけじゃないの。……この世界を構成する、美しくて冷たい『数式』を、音という形に変えて並べているだけ。……あなたの音は、熱すぎるわ。……でも、その熱はいつか自分を焼き切ってしまう。……もし、長くピアノを弾き続けたいなら、音を『支配』するのではなく、音が消えていく場所を、もっと静かに観察してみて」


 結衣はその言葉の意味を、その時の知能では完全には理解できなかった。


 しかし、玲奈が立ち去った後の廊下で、彼女は自分の指をじっと見つめ、初めて「音の物理」という深淵を覗き込んだ。


 この日、高坂結衣は、自身の華やかな才能を一度完全に解体することを決意した。玲奈という「神の視点」に一歩でも近づくために。


 それは、二人の少女の間に、ライバル関係を超えた「観測者と被観測者」という、歪で、けれど強固な絆が生まれた瞬間だった。

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