第7話 言語の奔流 ―― 脳内OSの強制アップデート

 プリスクールに入園して最初の一ヶ月。私の脳内で起きたのは、言語という概念を根底から粉砕する「情報革命」だった。


 前世の私は、英会話などからきしダメだった。駅前留学のチラシを眺め、月謝の高さに溜息をつき、結局「仕事で使うわけじゃないし」と自分に言い訳をして終わる程度の、典型的な英語コンプレックスを抱えた日本人中年。


 しかし、白石玲奈というこの肉体、そしてニューロンが爆発的に結合を続ける幼少期の脳は、私の意志を置き去りにして、英語という新しいOSを秒速でインストールしていった。


(……聞こえる。単語の羅列じゃない。音域の揺らぎが、色付きの波形として見えるんだ)


 ネイティブの教師が話すフレーズが、耳を通り過ぎる瞬間に、私の脳内で完璧な構文として解体され、意味のタグが付けられていく。単語を「覚える」という意識的な努力は一切不要だった。一度聞いた音は、その時の教師の瞳孔の開き具合、空調のノイズ、部屋の湿度、周囲の園児が放った二酸化炭素の濃度までをパッケージにして、脳内の高解像度ストレージに永遠に刻み込まれる。


 入園からわずか三ヶ月。私はクラスで最も流暢に、かつ知的で洗練された英語を操る園児になっていた。


 だが、私は決して自分から難しい言葉は口にしない。周囲の子供たちが「Look! A big plane!」とはしゃいでいる横で、私も同じように「Big! Wow!」と、舌足らずな子供の振りをしながら笑う。


 本当は、その飛行機が「ボーイング787-9」であり、その高度とエンジンの噴射音から推測される燃焼効率までが、視覚と聴覚の統合情報から自動的に算出されてしまうのだけれど。


 私の脳は、無意識のうちに情報の「精査」を開始していた。


 視界に入るすべての情報――教師の腕時計の秒針が刻む一秒の誤差、同級生の顔色から読み取れる前夜の睡眠不足――をすべて意識の表面に上げていたら、私の「前世の凡庸な魂」は、情報の津波に飲み込まれて焼き切れてしまう。私は前世の営業マン時代の「諦め」と「事なかれ主義」を必死に手繰り寄せ、あえて思考を停止させ、世界を平面的に見る訓練を自らに課した。


 しかし、その堅固な防御壁を、いとも容易く突破する出来事が起きた。


 自由時間、イギリス出身の理数担当教師・スティーブンが、趣味の数独(ナンプレ)の最高難易度版を眺めながら、溜息をついていた。


「……Oh, frustrating. ここから先、論理的な連鎖が繋がらない。仮定法を使うしかないのか」


 彼はコーヒーを啜りながら、ペンを止めていた。私は彼の横を通り過ぎる一瞬、その紙面を網膜にスキャンした。


(……三行目、九列目。そこを『5』に固定した瞬間に、すべてのグリッドの自由度がゼロになる。……あ、違う。そこは『X-Wing戦略』を適用すべき場面だ)


 私は無言で通り過ぎようとした。だが、私の「黄金の指先」が、あの「妙子さんの命を救った時」と同じように、意志を持った熱を帯びて動いた。


 私は無垢な笑顔を作りながら、スティーブンのテーブルに近寄った。


「Steve, look! This number, like a snake!」


 私は落ちていた鉛筆を拾い、空白のマス目に、震えるような子供らしい筆致で『5』を書き込んだ。


「Wait, Rena... なにを。……!? ……嘘だろ」


 スティーブンが消しゴムを持とうとして、その手が凍りついたように止まった。


「まさか。……ここに5を入れると、この縦のラインがすべて解決し……残りのマスもドミノ倒しのように埋まる。……おい、玲奈。君は、今のを計算してやったのか?」


 私は慌てて、三歳児特有の無邪気な笑みを顔面に張り付けた。


「へびさん、ここに住みたいって言ったの! ぴかぴかって!」


 私はその場を小走りで去った。背後で、スティーブンが「Amazing...」と呟き、震える手で眼鏡を拭き直す気配を感じながら、私は冷や汗を拭った。


(危ない……。俺の中の『スペック』が、勝手に現実を侵食し始めてる。もっと、もっと慎重に『バカ』にならなきゃ、本当に解剖されてしまう……)

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